2019年4月8日月曜日

存在を肯定する

前号の「理不尽な言動」の話の続き。

理不尽なことは身の回りに溢れている。
むしろ、それを理不尽で不当なことだと自覚しているかだけが大切である。

例えば、親からいただいた身体のことについて、他人にどうこういわれる筋合いはない。
背がどうだろうが、体重がどうだろうが、どんな顔の作りだろうが、どんな肌の色だろうが、他人には関係ない。
前号でも書いたが、そこで人をいじめることは、完全に理不尽であり、不当である。

大人なら、中には自分の生活習慣次第で左右できる面もあり、多少の負い目もあるかもしれない。
ただ少なくとも、子どもにとっての様々は、本人の意思とは無関係である。

恐ろしく劣悪な環境で育つ子どももいる。
とてつもなく恵まれた環境で育つ子どももいる。

それは、本人の罪でもなければ、功徳でもない。
完全に、与えられた環境である。
「そういうもの」というだけである。
卑下するのも偉そうにするのも、両方間違いである。

存在そのものの肯定。
大人が子どもを見る時にも、この考えは根底に必要である。

無意識に、教師、あるいは親は、子ども同士を比較して見てしまう。
ある一定の価値基準を設定し、比較して優劣、〇×をつける。
教師には「成績をつける」という業務がある以上、現状これは避けられない。

(本音を言うと、本当につまらない作業だと思う。
今の子どもはただでさえ外部で評価されることが多いのだから、小学校の成績なんてなくなればいいのにとずっと思っている。
日常生活の中で自然に存在を認めてあげ続ける方がずっと価値がある。
だから、本でも書いてある通り、あの作業はさっさと速攻で終わらせるに限る。)

他者との比較は、基本的に有害である。
製品等の比較検討とは、根本が違う。
子どもはそれぞれに、全く別の生き物である。
ライオンとペンギンの存在の優劣を比べるようなものである。
何を基準とするかで全く変わる。
存在価値に優劣はない。
異なる全ての生命に存在価値がある。

確かずっと以前にも紹介した話だが、再び例に出す。
ある自然実験。
サバンナの一部を枠で囲む。
本物の自然状態との違いは、中にライオンのような肉食獣がいないということだけである。
草食動物にとって、完全な平和が築かれるはずである。

結果はどうなるか。
「自然崩壊」である。
自身が食われないことにより、草食動物が異常繁殖する。
餌である植物が激減する。
植物に関わる生物が死滅する。
即ち、平和の享受者となったはずの草食動物も、死滅する。

肉食動物一つで、これである。
他の生き物を取り除いた場合にも、同様の現象が起きる。

結局、多様性こそが、完全な調和をもたらす。
違っていいというより、違わないと困る。
個人の好み一つとっても、色々あるから調和が保たれるのである。

理不尽な扱いを理不尽と認める。
違いはあっていいのではなく、あるからいい。
いじめ問題の根本にも関わる視点である。

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