2019年4月25日木曜日

負へのニーズといじめ

普段から、テレビを全く観ない。
ある日の土曜日の夕方、テレビのついている環境にたまたまいた。
そこで我が子たちと一緒にニュースを眺める状況になった。

最初に流れたのが、スポーツ界の若きスター少女たちの大活躍のニュース。
つづいて、海外の歌手の、少女たちへの連続暴行事件。
ニュースキャスターの方も、また余計なほどに詳しく事件について解説してくれる。
何気なくチャンネルを変えても、同じニュースがやっていた。

これは、意図があるのか、あるいはないのか。
私はメディアの裏側に詳しくないのでわからない。
ただせめて、もう少しニュースの種類を、棲み分けできないのかと思う。
(心理学的に計算されていて、わざとなのかもしれないが。)
深夜ならまだしも、お茶の間の団欒の時間に流すニュースとして、これが相応しいのか、甚だ疑問である。

世の中の負や悪の面を知ることも大事だ、という意見もある。
しかし、その手の情報については、そんな気を遣っていただかなくてもいい。
ご親切に、テレビ以外にも生活の至るところに溢れていて、常にお腹いっぱいで吐きそうである。

何で多くの人に一生無関係な、海外での婦女暴行事件をわざわざニュースで流さないといけないのか。
「悪を世に問うためだ」などといくらでも理屈はつけられるだろう。
しかし実情は単に、不謹慎にも「それが面白いから」ではないかとしか思えない。

スキャンダルや凶悪犯罪、殺人事件の類が、多分人々にとって「興味深い」のである。
その方が売れる(=視聴率がとれる)のである。
人間の中に、負や恐怖への欲望、渇望がある。
ホラー映画や猟奇的な漫画等がヒットするのも、欲望の根本は同じである。

欲望への否定は、どんなにしても無意味である。
多くの人が求める以上、「価値」が確実にある。

ここでいう「価値」とは、世の役に立つとかいう高尚な類のことではない。
多くの人が求めるということ、「ニーズ」のことである。
いいか悪いかとは全く別の次元の話である。

本質的には良くないものだけど、ニーズが多くて広まっている、というものは確実に多く存在する。
SNSでの「馬鹿騒ぎ」もその一つである。
(社会のモラルに反してもとにかく目立てばいいという安易な発想の投稿などは、本当に止めて欲しい。
それを観る方も観る方である。
買われる、あるいは見た跡がつきさえすば「勝ち」=「価値」なのである。)

いじめも、欲の発露の一種である。
暴力・暴言を振るうことによって、みじめな自己顕示欲を満たす。
相手を痛みつけて相対価値を下げることで、脆い自分の存在価値を確かめたいという欲望。
大人にも子どもにも同じようにある。
脆くて弱い人間が偽りの「安心感」を得るための、卑劣で哀しい行為である。

ちなみに、痛みつける相手は、自分より価値の高いと思える相手、あるいは罪が深いと思える相手ほど、快楽効果が高くなる。
特に素晴らしい人物が「磔(はりつけ)」になった時は、普段弱い人間ほどつるんで「石を投げる」行為に及ぶ。
ここぞとばかりに「正義」を振りかざして、快楽を得る。

誰かに落ち度があっても、だからいじめていいということにはならない。
キリストの「あなたがたの中で罪のないものが石を投げよ」という言葉があるが、実に聡明である。

実に嫌だが「いじめの快楽」を引き起こす現状がある。
母親の「抱っこ」等の根源的な部分が不足して、自己の存在感を満たしきれていない子どもが相当数いる。

ここに人間の「負への欲望」が根本にある以上、根本的にいじめをなくすというのは、理想論ではあるが現実的でない。
全員の人間の負の欲望そのものを「浄化」できればいいが、この世界の環境、状況を見ると、到底望むべくもない。
子どもの周りにも、負の欲望を引き起こす情報が溢れているのである。
いつでも「ある」前提で、対処できるように常に構えておく必要がある。

人間の抱える、負へのニーズ、欲望。
目を背けたくなるが、教育において避けては通れないと感じた、久々にテレビを観ての出来事だった。

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