「教育者モラロジー」という会での学び。
ここでの、実践発表者の方の話が心に残った。
子ども時代、身体つきのせいで、不遇な思いをしたという。
「デブ」とからわれる。
手が出る。
先生に倍怒られる。
その理不尽さに更に不満がつのり、また手が出る。
全く納得の話であり、教師としても親としても自戒すべき話である。
「手を出したら負け」は、真実である。
大人でも同じで、暴力行為は裁かれる。
しかしながら、暴言を吐かれ続ける子どもに「我慢しろ」の一点張りは、無理である。
「いじめられる方にも原因がある」論になる。
身体的特徴が原因だとしたら、どうすればいいのか。
言われないようにしなさいなど、アドバイスにすらならない。
自責と他からの叱責の二重の責め苦である。
この、やったやられた、どちらが先か後か論争は、やればやるほど無意味である。
この例の子どものような場合、手が先に出たにしても、その根本的な原因がずっと以前までの関わりにまでさかのぼる。
当然、教師の言葉など届かない。
信頼できないからである。
どうするか。
理不尽さを理解してあげることである。
あり得ない行動の陰には、想像を越えた理由や苦しみがある。
親や教師の側も、その理不尽さにどうしても腹が立つかもしれない。
腹が立つのは仕方ない。
人間だから当然である。
ただ、「とはいえ、わかる。」という姿勢だけはもつことである。
トラウマ的な体験がある子もいる。
ものすごい家庭環境に育っている子もいる。
本人にしかわからない苦しみがある。
大人と同じである。
理不尽さを汲んでみる。
手が出てしまう、悪態をつく子どもの背景に思いを馳せる。
発表者の方の本音のメッセージから、多くの気付きをいただけた。
2019年4月7日日曜日
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