ある企業の方から頂いた言葉。
「松尾さんは、引き算の人だよね。」
確かに、普段から「足し算」よりも「引き算」で考える習慣がある。
『「捨てる」仕事術』も、引き算の本である。
学校は、基本的に足し算が多い。
新しい学習内容が増える。
行事も増える。
前のものをなくさずに、どんどん付け足していく。
指導案一つとってもそうである。
様々な人からの「指導」「助言」が入り、言葉がどんどん付け足される。
そうすると、読む気のしない分量の指導案ができる。
一般企業の方に見せたら多分「A4用紙1枚以内でまとめられる内容だよね」と言われる。
(企画は1行で書け、という人もいるぐらいである。)
学校現場は「ハウルの動く城」みたいになっている。
何かの魔法がかかっているらしく、なぜか持ちこたえているが、今にも自重で潰れそうである。
引いた方がいい。
捨てた方がいい。
本当に大切なものが、埋もれて見えなくなってしまっている。
教育用語も、どんどん新しいものが出てくる。
新しいために明確な定義がない。
意味不明なので、有識者が何とか意味をつけ、定義づける。
しかし次々に出版される「〇〇とは」の数々を必死に読んでも、多くはやはり意味不明である。
(そもそも教師の側は足し算の日々に忙しすぎて、それを読む時間も意欲もないかもしれない。)
「あなたの頭が悪くて理解できないだけだ」と言われるのが怖いので、とりあえずわかったふりをする。
嘘と偽りの厚塗りである。
そのうちみんな「カオナシ」みたいになるかもしれない。
例えば物が増えるのも、足し算発想である。
足し続ければ、当然物が溢れる。
引き出し自体の大きさは、決まっているからである。
人間関係の広がりも、足し算である。
SNSは、やっているだけで、どんどん「友達」が増えていく。
「♪ともだち100人できるかな♪」も、余裕である。
年賀状は、丁寧にやっていれば、年々着実に枚数は増えていく。
それを、喜びと感じられるなら、足していけばいい。
しかし、重荷や窮屈さを感じるなら、引く必要、加えて、足しすぎない工夫がいる。
引き算の人。
人によっては「冷たい」「ドライ」と受け取るかもしれない。
引き算の発想では、余計なところに熱を注がない。
引くことによって余力の熱が生じる。
それを、集光レンズのように、本当に必要なところにすべて注ぎ込む。
教育の新用語が出てきても、焦って何か新しいことをしようとしない。
逆に、余計なものをやめる方が先である。
そうすれば、空いた余白に何か書き込めるかもしれない。
例えば「宿題」とか、もう存在自体を相当に見直す時期に来ている。
昭和の時代と違い、授業時数も増え、習い事も多種多様になった。
子どもの放課後の自由時間というものはほとんどない。
子どもの側にも親の側にも、あれに割く余白の時間がないのである。
引き算の人。
とても気に入った。
力強い言葉は、いつでもシンプルである。
2019年4月23日火曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿