新元号の発表に関連して、教育者モラロジーでの学び。
国家が不安定になる→国民が不幸になる
というお話があった。
論理的に考えて、当然のことである。
ここに関連しての気付き。
国を大切にしよう、というのは、右だ左だという思想の問題ですらない。
自分の所属する集団がピンチになれば、自分もピンチになるから大切にしようという単純な話である。
逆に、国家を転覆させようという運動が盛んになっている国もある。
どこも、政権が不安定すぎる状態である。
国民の大方が既に不幸な状態である。
教育基本法の第1条(教育の目的)を引用する。
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教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、
真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、
自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
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この目的に沿って子どもを育てるというのは、国と国民そのものを守ることにつながる。
世界の信用に足る国民の育成である。
これは、国という大きな単位ではなく、学級レベルからの教育でもいえる。
学級が不幸集団になれば、自分も不幸になるというのは、容易に実感できる。
自分だけが幸せならいい、という個人の集まる集団は、全員が間違いなく不幸になる。
子どもたちを「平和的な学級」の形成者として、真理と正義が通る集団に育てる必要がある。
それぞれの個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじる集団にする必要がある。
その上で、自主的精神に充ちた心身ともに健康な子どもの育成を期して計画的に運営していく責務が、担任にはある。
自分さえよければ、集団はどうでもいいという子どもには絶対にしない。
自分も幸せ、仲間も幸せという状態を愛する子どもにしていく。
それには、子どものもつ能力を伸展させることである。
それには、子ども同士をつなげることである。
自分の存在そのものを認め、他人の存在そのものを認めることである。
差異を「明らかに認める」ようにしかけていくことである。
国への誇りをもつことは大切である。
しかし、それには長い時間がかかるかもしれない。
まずできることとして、子どもが自分の学級、学校、そして地域への誇りをもてるようにしたい。
2019年4月10日水曜日
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