最近の気付き。
学級経営だけでなく、人生に関わる考え方について。
すべてのうまくいかないことの根源に「罪悪感」がある。
腹が立つことも、「ねばならない」「〇〇すべき」も、根源はこれである。
自信がないのも、自信過剰なのも、すべてこれである。
罪悪感は、幼少期に作られる。
幼少期の「インプリンティング」、無意識への刷り込みである。
真っ白な状態に刷り込まれているので、内容がどんなに理不尽であっても抵抗できないし、気付けない。
ここは、需要なポイントである。
例えば、幼少期に父と母の夫婦喧嘩を止められなかった無力感。
ここから、「自分には力がない」という誤認と、「人を助けられない人間はダメ」という罪悪感が生まれる。
この反動として、力や地位を追い求めたり、自己犠牲を払ってでも人助けをするようになる。
これが長じると、努力をしない人を責めたり、人を助けない人を非難するようになる。
例えば、自分が何か邪魔されることに腹が立つ。
これは、親のやることを邪魔をすると叱られた記憶があるかもしれない。
あるいは、手伝おうとして邪魔にされた記憶かもしれない。
要は「やりたいことを自由にやっていはいけない」「我慢が大切」という幼少期の記憶である。
これは、そのまま自己の無力感にもつながり、自分の存在の否定にもつながる。
または、やりたいことをやる人はワガママでダメという考え方を形成する。
例えば子どもを見てワガママだ、と感じるのであれば、それは羨望にも似た恨みの感情ともとれる。
例えば、仕事でも何でも、成績が悪くなると落ち込むという場合。
「勉強しなさい」と言われ続けた、あるいは良い成績の時だけ褒められた幼少期を疑う。
結果主義になる。
他人にもそれを求め、子どもにも「できることがよい」「できないのはダメな人」という価値観を押し付けるようになる。
一方で、幼少期、親が自分に対し無関心で育った子どももいる。
自分が泣いても騒いでも、親はスマホをいじっている。
何をしても、関心をもたない。
たまに「うるさい!」と叩かれることはあるが、それは自分のためではなく、親に迷惑をかけるなというメッセージである。
ここから作られる「罪悪感」は、存在の否定である。
自分の存在は無意味である以上、存在すること自体への罪悪感をもつ。
あるいは、人の機嫌を損ねることへの罪悪感である。
これらすべての罪悪感は、自分に向くことで、同時に他人にも向く。
自分が制約されているのだから、相手にも制約を課して「当然」である。
それが「正義」。
罪悪感によって作られた正義である。
続きは次号。
2019年4月20日土曜日
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