わからないから、お隣の人にきく。
望ましい行為である。
しかしながら、テストとなるとその意味は変わってくる。
一年生であっても、自力が求められる。
(そもそも、力さえつければ一年生に本来テストは不要、というのが持論ではあるが、ここでは置いておく。)
なぜか。
テストは自力そのものの結果を計測する「実験」だからである。
普段の授業とは意味合いが異なるのである。
実験では、条件を揃えるのが鉄則である。
「自力」というのが揃える条件である。
学校等のテストの場合、必要な知識が身についているかを測定したい。
学校のテストの本来の本質的な役割は、成績をつけるためのものではない。
力をつけるためのものである。
(しかしながら、実際は手段が目的化している感は否めない。)
一方、センター試験等の入学試験系では意味が全く変わる。
完全に測定&順位付けが目的である。
だから、不正は即「ランク外」=「退場」となる。
学校のテストでは、誰が結果を知り、生かすのか。
まず自分。
採点する教師。
そして親。
三者が、子どもの「未達」部分を把握し、改善に生かす。
できるようになる。
これが望ましいサイクルである。
これを、お隣を見て書く、という行為をOKにして進める場合、力を知る場を別に設ける必要が出る。
特に、ひらがなや漢字のようなものは、未達のまま学年が上がると、大きく響く。
現在のグラフの傾きが少し緩くなれば、先々の方向は大きく下方修正することになるからである。
テストの結果自体は、不正をすれば、高得点が得られる。
しかしこれは、後で確実に痛い目に遭うのが目に見えている。
学年が上がるにつれて、どんどん差がつく。
不正をして乗り切り続けた場合は、不正のできない勝負どころで、当然がくんと結果が落ちる。
(まあ、元々あまりできないからやるという面があるとは思う。)
悲惨である。
自業自得とはいえ、無残である。
結局、学力向上に関しては、本人が地道にやる他ない。
その素地を、早めにつくる。
また、手本を見ても同じようにできないことがある。
それが、技能系。
書字や楽器の演奏、運動技能等である。
これは、不正ができないので、測定しやすい。
大いに手本を真似をさせるところである。
テストでは、隣を見ない。
その理由も話す。
そのテストの結果そのものなんて、どうでもいい。
そういうことは、きちんと教える。
その学年の内、あるいは人生の中で、その力がつくかどうかが問題なのである。
この手の不正は、本人の生涯に損害をもたらす。
道徳的な崇高な話ではなく、単に損得レベルからしての問題なのである。
短期的な利益を求めて、長期で大損害を被っては意味がない。
だからといって、不正を厳しく取り締まるのも違う。
取り締まりによって人間が改善されることはない。
表面は穏やかになったようでも、水面下で溜まるだけである。
教え、諭すしかない。
不正をする人間は、大抵、もがき苦しんでいるのである。
そこへの理解は、必要である。
不正をさせない。
長期的な損得をしっかり考えさせる。
他のあらゆることにもいえる、普遍的原則である。
2019年3月29日金曜日
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