2019年3月17日日曜日

長所伸展・短所無視

長所伸展・短所無視。

これは、私のノートに書いてある「大切にしている言葉」の一つである。
様々な方が言っていることなので出典ははっきりしないが、かの吉田松陰もほぼ同じことを言っている。

逆に一番うまくいかない教育の方針が「苦手克服」である。
よく「夏休み中に苦手の克服」とかいうが、本来「休み」を標榜する学校の出すべき方針ではない。

夏休みの短期間補講や、冬休みに一律の宿題で出して家庭教育の中で克服できることなら、普段学校にいる間にどうにかすべきである。
万が一そんなことぐらいでできるようになってしまったら、普段の授業がいかに駄目かということの証明である。
宿題に頼るのではなく、授業自体を改善の必要ありと自覚するのがまっとうである。

今の仕事は、人生で苦手を克服したから、成功しているのか。

大抵、答えはノーである。
多くは、長所を伸ばして成功している。
あるいは、やりたくないことを我慢し続けて、表面的に「成功」しているかもしれない。

克服しようと努力し続けられること自体、既に特筆すべき長所である。
(早起きと同じで、良いとわかっていても、単に向いてない人には向いてないので、できないという面がある。)

学級がうまくいかなくなるのも、大抵この視点である。
学級の中の欠点をなくしていこうとがんばってしまう。
つまり、ダメなところに着目して指摘していく。

そうすると、子どもは不適切な行動をとればとるほど、着目してもらえる。
つまり、悪ければ悪いほど報酬がもらえる。

普通、あらゆる場面において、不適切な行動が多いのは少数派である。
それを、敢えて増やす行為に出る。
自然、中間層も不適切行動に流れていく。

逆である。
優れた方に目を向ける。
長所伸展・短所無視である。

適切、という言い方をするならば、学級というのは最初過半数は適切な行動をとる。
なぜなら、自動的に同調圧力が働くからである。
逸脱行為は好まれない。

変な目立ち方をしようとする子どもの行動に対しては、一旦受け流す。
不適切行為への対応をできるだけ優先しないのが肝要である。

逆に、優れた行為はしっかりと認めていく。
すると、子どもたちは素直なので、当然真似をする。
自然、その行為をする子どもを増やすことになる。
必然、そういった行為の多い集団になっていく。

それができない、という子どもでも、特段に注意されたり叱責される訳ではないので、問題ない。
他の面で良い面があれば、そちらで注目してもらえるし、その気になれば真似をしだす。

そして人間は認めてもらえて自己承認が満たされると、人に優しくなる。
困っている人を自然に助けたくなる。

そうなると、自分ができることは助けてあげるし、自分ができないことは助けてもらうということが自然になっていく。
相互協力が当たり前の集団に育っていく。

単純にいうと、そういう仕組みである。

そもそも、人間というのは、不完全さをどうにかしようとすると、おかしくなる。
「不完全なようで完全」である。

自然のままの作物を見ればわかる。
スーパーに並んでいるきれいで揃った野菜や果物は、「商売」を目的として生き残った、ある意味「不自然」な品々である。
品種改良や農薬、さらには廃棄を含めて、人間の「こうあるべき」の手が入りまくっている。

人間は、そうではない。
一見駄目なところもありつつ、ありのままの自分でできることをしていくというのが大切なのである。

自分にできないところがあるからこそ、他人にその素晴らしい能力を発揮する場を提供できるともいえる。
商売の基本も、そういう仕組みである。
世に不足や不備があるからこそ、商品を提供できる。
全員が万物を作り出せる完璧な存在だと、需要と供給が成り立たない。

細々したことはあっても、大きなコツは、それだけのことである。
逸脱行為や欠点を「放っておけない」と変な正義感を出して矯正しようとするから、失敗する。
駄目なところは、とりあえずでいいので、放っておいてほしいのである。
そんな暇と洞察力があるなら、いいところを一つでも指摘して気付かせてほしいのである。

長所伸展・短所無視。
吉田松陰はじめ、数々の優れた先人たちの、共通の教育方針である。

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