棋士の藤井聡太七段の言葉。
「学校では、5分で分かることを、どうして45分もかけて教えるのだろう。」
これは、天才の言葉である。
そのまま鵜呑みにして一般化してはいけない。
本当に授業を5分で終わらせたら色々困る。
一方で、必然性もなく、45分かけている授業があるのも事実。
いわゆる「できる子ども」や、逆に「理解の遅れがちな子ども」にとっては、他と同じものを与えてはいけない。
それを使って、理解するのに45分が長すぎる、あるいは短すぎるからである。
授業についていけない子どもを放っておくことは、一般的にも許されない。
一方で、内容を5分で理解してしまう子どもを放っておくことに対してはどうか。
こちらには、なぜかみんな寛容である。
これは、不当な差別である。
どちらも、もちろんその中間も、放っておいてはいけない。
遅れがちな子を支援する。
あるいは割合の最も大きい中間層を優先する。
この二つは、割とよくみる。
しかし、秀才、天才の含まれる層を優先する、というと、多分批判される。
理由は色々考えられるが、多分そうである。
本当は、そこがかなり大切なのである。
5分で理解してしまう子に手だてをうてていないことが、学級の機能不全を引き起こすことが結構ある。
この層は、発展的な課題にもどんどん取り組んでクリアしていくため、他の模範や目標になる。
また、サポートでも大いに力を発揮する。
本質的に「わかっている」からである。
つまり、集団全体を大幅に引き上げる力をもつ。
それはつまり一方で、放置しておくと、大変なことになるということ。
誰が担任しても、いつもふてくされているAさんなら、関わりよう、励ましようがある。
一方で、真面目で優秀、あるいは天才肌のBさんがもし反抗し出したら、凡人の手には負えない。
特に中間層の集団を引っ張る智恵と力が強いからである。
つまり深刻な学級崩壊とは、
「この人、もうダメ」
と超優秀なBさんにまで見切りをつけられた状態である。
私はよくセミナーで、これを説明するために漫画の「GTO」や「ごくせん」を例に出す。
どちらも、学校をめちゃくちゃにしている一見「悪ガキ」どもが、実は超優秀だったり心根の優しい子どもたちだったりするのである。
つまり、子どものリーダー的存在が、正の方向か負の方向か、どちらに振れているかで現象が異なって見えるだけである。
鬼塚もヤンクミも、それらの子どもの心をつかむことで、立て直しに成功している。
ストーリー自体は破天荒で完全に漫画の世界だが、本質的には現実のそれと同じである。
天才には、「普通の授業」がつまらなくて、苦痛なのである。
「自分にやれることがない」という苦痛である。
中学校以降で、数学がさっぱりわからないで授業を受けている子どもと、ある意味同じ絶望感である。
檻に入れられて、時間いっぱい耐えている感じである。
これは、肝に銘じておく必要がある。
天才だから無理、で片付けない。
本当に秀才、天才だったら、ものすごく高い課題を与えても大丈夫である。
考えて乗り越えてくる。
繰り返すが、これが結局、中間層の引き上げや、わからないで困っている層を救う手立てにもなる。
こういった「少数派」の声に確実に耳を傾けることが大切である。
2019年3月28日木曜日
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