「してあげる」ということについての一つの観。
学校は、子どもに何かとしてあげる場である。
いくら主体的に、といっても、何もしてあげない訳にはいかない。
教育の場なのだから、当然である。
(親が子にしてあげるということも同様である。)
さて、「してあげる」の意識が多いほど、ストレスがたまる。
こんなにしてあげた「のに」が登場するからである。
ここの意識を変える。
して「あげた」のだから、返ってこなくてよいと考える。
「あげた」ものを「返せ」というのは、横暴である。
「いつになったら返すの」とか言われたら、もらったと思っている方はびっくりする。
「あげる」は「貸し」とは違う。
「あげる」というのは、プレゼントである。
見返りを期待するものではないし、相手が喜ぶかどうかも、相手主体、相手次第である。
プレゼントの最大の恩恵は何か。
あげる側の幸福感である。
相手の喜ぶ顔を期待する幸福感である。
選ぶ段階から楽しいのが、プレゼントの本質である。
プレゼントを渡した相手が、喜ばなかったとする。
「これ、いらないや。」と言うこともある。
この時、相手を非難するのはおかしい。
(まあ、子どもでなかったら、通常「嬉しい」「ありがとうございます」ぐらいは言うという礼儀はある。)
たまたま、プレゼントの選択が良くなかったのである。
そこをくよくよしても仕方ない。
あげたら、それで終わり。
見返りを期待しない。
返してもらおうとしない。
こう考えるだけで、ストレスが大幅に減る。
例えば、ものすごく力を入れた授業研で、子どもの反応が思うより良くなかったとする。
そこに怒るのは、当然変な話である。
(授業がつまらないという証である。)
自分があげたくてあげたのだから、そこまでである。
見返りを期待しない。
あらゆることに応用の効く観なので、紹介してみた。
2019年3月26日火曜日
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