2019年3月26日火曜日

「してあげる」は見返りなしのプレゼント

「してあげる」ということについての一つの観。

学校は、子どもに何かとしてあげる場である。
いくら主体的に、といっても、何もしてあげない訳にはいかない。
教育の場なのだから、当然である。
(親が子にしてあげるということも同様である。)

さて、「してあげる」の意識が多いほど、ストレスがたまる。
こんなにしてあげた「のに」が登場するからである。

ここの意識を変える。
して「あげた」のだから、返ってこなくてよいと考える。
「あげた」ものを「返せ」というのは、横暴である。
「いつになったら返すの」とか言われたら、もらったと思っている方はびっくりする。

「あげる」は「貸し」とは違う。
「あげる」というのは、プレゼントである。
見返りを期待するものではないし、相手が喜ぶかどうかも、相手主体、相手次第である。

プレゼントの最大の恩恵は何か。
あげる側の幸福感である。
相手の喜ぶ顔を期待する幸福感である。
選ぶ段階から楽しいのが、プレゼントの本質である。

プレゼントを渡した相手が、喜ばなかったとする。
「これ、いらないや。」と言うこともある。
この時、相手を非難するのはおかしい。
(まあ、子どもでなかったら、通常「嬉しい」「ありがとうございます」ぐらいは言うという礼儀はある。)
たまたま、プレゼントの選択が良くなかったのである。
そこをくよくよしても仕方ない。

あげたら、それで終わり。
見返りを期待しない。
返してもらおうとしない。

こう考えるだけで、ストレスが大幅に減る。
例えば、ものすごく力を入れた授業研で、子どもの反応が思うより良くなかったとする。
そこに怒るのは、当然変な話である。
(授業がつまらないという証である。)

自分があげたくてあげたのだから、そこまでである。
見返りを期待しない。

あらゆることに応用の効く観なので、紹介してみた。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング