2019年3月2日土曜日

やってあげてることは、一生できない

冬休みの時期に書いたメルマガでの気付き。

長期休みは、多少なりとも生活リズムが乱れる。
そうすると、家族の食事時間がずれる日も出る。
(私も度重なる様々な友人・知人との会合続きで、あまり偉そうなことを言えない立場である。)

下の子どもが、お腹が空いたという。
自分でトースターを使ってパンを焼けばよい。
そう伝えた。

意外にも、自分でやったことがなかったようである。
トースターの使い方がわからない様子。
他のことは結構自分でやれるのである。

やり方を教えて、今後は自分でやるのだと伝えた。
そして、1枚だけということを忘れたせいで、時間設定を失敗し、端の方が結構な具合に焦げた。
父の面目丸つぶれである。

料理の類は、覚えたての初期は焦がしたり駄目にしたりするのが前提である。
失敗するからといってやらせないでいると、いつまでもできない。
下手すると、一人暮らしするまで料理をしたことがない、という状態すら起きる。
私は幸か不幸か、小学生時代から親が家にいないことが多かったため、必然的に色々と作って覚えられた。

これは、教育においてかなり重要なことである。
やらせないとできない。
当たり前のことである。

しかし、多くはここにおいて失敗をしがちである。
自分は熱心で愛情深いと思っている教師や親ほど要注意ポイントである。

なぜやらせないのか。
(または、なぜ自分もやらないのか、挑戦しないのかという話にもつながる。)
次の二つが主な理由(言い訳)である。

1 危険だから
2 うまくやれなそうだから(失敗しそうだから)

この2つの理由が駄目なのは明白である。
やらせないから、いつまでも危険なのである。
やらせないから、いつまでもうまくやれないのである。

つまり、やれるようになることを「親切」にやってあげ続けるということは「無能教育」である。
親から切り離してやれるようにするのが、本当の親切である。

実は、潜在的にもう一つの理由がある。
こちらの方が、自覚しにくいので、気付きにくい。

ずばり、自分の存在価値のためである。

つまり
「自分がいないとダメなんだから」
と言いたい。

自分の能力誇示なのである。
存在の誇示といってもいい。
存在価値への固執ともいえる。

それは、いらない。
人ができるようになることは、やれるように教えればいいのである。

それよりも、自分にしかできないことに集中すべきである。
その方が、よほど自分の存在価値が高まる。
職場でも、ノウハウやデータをシェアした方が、自分だけで抱え込むより良い。

とりあえず、やらせてみる。
できない100の理由はいらない。
いいから、やらせてみる。

自主・自立を促す「生きる力」を育む教育の要諦であり、自己教育においても同様である。

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