前号の続き。
良い理想形にも、落とし穴がある。
良い理想形を抱き、それを広げていくことは必要である。
しかしながら、それにより「同調圧力」という言葉に示されるように、「良い」「正しい」が押し付けられる可能性がある。
そうなってくると、元々は良かったはずのものも、やはり害悪と化す。
昨今の「自粛警察」などはそのわかりやすい例である。
他人への感染防止に気を払うこと自体は大変いいことだが、これを他に強制し始めると、おかしなことになる。
つまり、自分がやっている、できるからといって、他人にその価値観を押し付けることが間違いの元である。
前号で「良い習慣」として紹介した、整理整頓を例に挙げてみる。
実はこれとて、気を付けないと害悪にもなり得る。
世の中には、整理整頓が本当にできないという人がかなりいる。
ふざけている訳でもやる気がない訳でもなく、できないのである。
そういう人が一定数いることを理解しているのであればよい。
しかしながら、それが共通理解されていない場合、周囲は同一を求めることになる。
「何でできないの!?」「また散らかして!」という怒声とともに正義が振りかざされる。
冷静になって考えてみれば、周りの人には余裕でできるのに、自分にはできないことというのは、かなりある。
逆もあって、周りの多くの人にとっては苦手なことなのに、自分は大した努力もせずにすいすいできるということもある。
前者が、助けてもらうところで、「助けて力」発揮ポイントである。
後者は、助けてあげるところで、「任せて力」発揮ポイントである。
多様性の尊重、互恵の関係である。
例えば私は、子どもの頃から忘れ物が多い。
更に言うと、物忘れが多い。
別に病気とか大げさな話ではなく、昔から忘れっぽい性質なのである。
(代わりに、嫌なこともすぐ忘れる。)
自覚症状があるから、付箋メモや手帳、スマホのメモ・カレンダー機能は欠かせない。
更に、周囲の人の記憶力に頼ることもしばしばである。
(大概、いつでも、頼れる人が偶然そばにいる。)
きちんとした人にとっては「だらしない奴だ」と思われるかもしれない。
しかし、それが自分であると自覚している。
そうすると、自分に合ったうまく生きる術が身に付いてくる。
この自覚があると、他の人の欠点にも寛容になれる。
あらゆる他人の欠点も「自分よりはまし」とも思える。
相手もそう思ってくれていれば、なお有難いことである。
あらゆることに、この原則は適用される。
全員が同じようにできることなどない。
(あったら気持ち悪い。)
どんな簡単に見えることであっても、ある人にとっては困難なのである。
学校現場でよくあるのが「人前で発表できない」というものである。
ものを言おうとすると、過度に緊張するらしい。(場合によっては、固まる。)
そういう子ども(または大人であっても)に無理に発言させることはできないし、そこを矯正しようとする意味はない。
意見を書いてもらうとか周りが助けるとか、代わりの手段を用いればいいだけの話である。
過度に動く子どもというのもよく見られる。
これも、動きを制限することはできない。
動くものは動く。
他の子はきちんとしてるでしょ、などと比較して説教しても、できないものはできない。
その子どもが動いても問題ない環境を作る方が賢明である。
さて、これらの特質を認めるにあたり、前提がある。
前号までに大切だと言ってきた「当たり前」「常識」「理想形」の在り方である。
滅茶苦茶に散らかった教室の中だと、その子どもの特質を見抜けない。
集団の多くがだらしないので、その子どもも単にだらしない中の一部にしか見えない。
分からないので、支援できないということになる。
基本的にぎすぎすした雰囲気の中だと、緊張して発言できないという特質の子どもが見抜けない。
単に何を言っても嫌なことを言われるから言わない、という子どもが多数出るためである。
授業中に私語が飛び交い、誰彼構わず勝手に遊びまわる教室では、動いてしまう子どもへの支援はできない。
当り前基準が真面目に授業を受けるという状態だからこそ、動き回る子どもへの対応も、みんなで一緒に考えられるのである。
「滅茶苦茶な方がそういう子どもが目立たなくていい」という見方もあるが、それでは教育にならない。
本人の特質を見抜き、それに合った生き方を考えていくことが大切である。
うまくできないことを自覚できれば、対策の立てようがある。
単に滅茶苦茶な環境だから目立たない、となると、そのまま育つことになる。
結果、自覚症状も自信もないまま大きくなるので、社会に適応できなくなり、本人が不幸になる。
これは、教育の敗北である。
理想形をもつこと。
その上で、理想形に全く当てはまらない人も認めること。
この両立が必要である。
「清濁併せ呑む」という言葉があるが、世界の在り方からしてこうである。
世界にはS極とN極があるように、プラスとマイナスが両方存在して成り立っている。
理想を抱きつつ、一見マイナスに見えるものも許容し、それすら必要と思える教室を作っていきたい。
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