最近読んだ、次の本から。
各章のタイトルだけ紹介すると
第1章 「反省以前」の子どもたち
第2章 「僕はやさしい人間です」と答える殺人少年
第4章 気づかれない子どもたち
第6章 褒める教育だけでは問題は解決しない
・・・・
このタイトルだけでも考えさせられる内容である。
医療少年院という特殊な場所での経験を元に筆者が書いている。
筆者が対する少年(男女関係なく少年と呼ぶ)たちは、決して「特殊な子ども」たちではない。
しかしながら、小・中学校をはじめとする周囲の理解・認識不足により、奈落の底まで落ちていってしまった子どもたちである。
「反省以前」の子どもたち。
どういう意味か。
「反省」ができるのは、高度な認知能力である。
自分を客観的に見る、メタ認知能力である。(実は大人でも苦手な人の方が圧倒的に多いのではないかと思う。)
認識能力自体が欠けている、あるいは異なる認識・情報処理方法だとしたら、すべてが成立しない、ということである。
もしも物事が歪んで見えていたら、図形を正しく書き写すことはできない。
もしも話が歪んで聞こえていたら、意味を理解することはできない。
以下、私の解釈である。
例えば誰かに説明されている途中、突然アラビア語が随所に混じるようなものである。
相手がどんなに真剣に話していても、それをこちらが真剣に聞こうと思っていても、意味がさっぱりわからない。
わかりようがない。
しかし「わかったね」と言われたら「はい」と答えるしかない。
「わからない」などと答えたら「真面目に聞け!」とどやされると相場が決まっているからである。
こんなことを繰り返して生きている子どもたちが、日本中(いや、世界中)にいる。
自暴自棄にならない方が奇跡である。
学級担任をしている皆さんに思い浮かべていただきたい。
クラスに何度言ってもさっぱり反省しない、改善しようとしない子どもがいないだろうか。
いわゆる「やる気がない」子である。
そう、例の「やる気」である。
やる気はやった後に起きるものであって、やれる前には起きない。
やる気がないのではなくて、やれない。
この見方が大切である。
この可能性を考えることで、対応は変わる。
自分自身に問うてみる。
他の人にとっては容易にすぐできるようなのに、自分に大きく欠けている認識能力がないだろうか。
ひどい方向音痴。
なぜかまともな料理ができない。
字が下手。(字形が正しくとれない)
ひどく忘れっぽい。
話がうまく聞き取れない。
考えていることをうまく喋れない。
味覚が人とずれている。
物との距離感がうまくとれないで、よく頭などをぶつける。
片づけられない、捨てられない。
等々。
どれも、本人の心がけとか努力の問題ではないかもしれない。
根本が、認識能力の問題である可能性がある。
しかし、普通にできる他人から見ると「ふざけてる」「やる気がない」「努力不足」に見えるものばかりである。
もしこれがたまたま「聞く」という人間関係で重要な認識能力だったら。
「見る」という社会で最も使う認識能力だったら。
全てが歪んで見えて、雑音になって聞こえてくる世界。
恐ろしく生きづらいのが想像できる。
目の前の子どもは、やる気がないだけなのか。
あるいは、反省できないようなひねくれた性格の持ち主なのか。
恐らく、多くの場合、違うと考えた方がいい。
そうなると、手立ては変わってくる。
一生懸命教え諭しても、無駄である。
相手にとって、それはアラビア語だからである。
違う手段、方法をとる必要がある。
認識能力の矯正には、専門的なトレーニングが必要になる。
その知識を小学校教員に求めるか否かは別として、そういうものの存在は知っておいて損はない。
(小学校教員は、度重なる教育改革、ビルド&ビルドで、全方向への対応能力を求められすぎである。
全部真面目に応じてたら本当に過労と心労で死んでしまう。
もしこのまま求め続けるなら、せめて新規採用の給与額を倍にしないと必要な人材が集まらなくなるかもしれないと思う。
それは無理だろうから、今後の改革はせめてスクラップ&ビルドの方向にしていって欲しい。)
教員だって、うまくいかないことを「ふざけてる」「やる気がない」「努力不足」で断じられたら、かなり辛い。
人によって、できないこともある。
それを子どもにも認めて、対応を変える必要がある。
教室に「困ったあの子」がいる人には、特に一読の価値ありの本である。
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