2020年12月7日月曜日

続 信賞必罰 醒めた目と温かい心

前号の続き。

信賞必罰、醒めた目と温かい心が大切である。

しかし、この真逆をいっていることがある。


実例を挙げて考える。


子どもが、自分で考えて一生懸命何かをした。


例えば、自分のことは自分でしよう、あるいはお手伝いをしようと食器を運んだとする。


それらの行為が、結果としてうまくいかなかった、あるいは大人から見て出来がよくないことがよくある。


食器は特にわかりやすいが、うっかり落として、がちゃん!べちゃ!である。




もしここで叱ったら、これでアウトである。


これを続けば「私はできない、認められない、だめな人間だ」となること必至である。




ここは、褒めるべきところである。


挑戦による失敗だからである。


まずは運ぼうとしたことを認める場面である。


その上で、次はこうするとうまくいくよと教え、励ます場面である。




ここまで書いて、反論の声が聞こえてくる。


そんなことは重々わかっているが、頭に来るし、そんあ仏様みたいな対応できるかと。




そう、仰る通り、この正しい信賞必罰の方が、圧倒的に難しい。


表面上は「失敗」なので、大人としては心配したりイラっとしたりして当然だからである。


子どもが食器を落として壊して食べ物をぶちまけたのにも関わらず、笑顔で包み込むような対応をできる度量が必要となる。


気持ち的には釈迦かキリストか、あるはマザー・テレサ辺りにならないといけない。




だから、教育は失敗しやすい。


人間としての器の大きさが必要となる。


器の大きい大人は、どれぐらいの割合で存在できるのだろうか。


体が大きければ偉い訳ではないのに、幼児や小学生相手についひどい対応が出てしまう。


人間的な弱さ故である。




もう一つ、叱るべき時に褒めてしまったり、認めてしまったりという大失敗もある。


例えば、子どもが電車で大騒ぎしていたとする。


乗客の冷たい目線を気にして「あそこのおじさんが怒るからやめようね」と諭す。


これは「元気なあなたは正しいのだけれど、怒るあの人が間違っている」というメッセージとなる。


最悪の教育である。




これと類似した現象が学校現場でも散見される。


叱る時は、叱る側も叱られる側も他を引き合いに出さず、間違いなく「私対私」の責任でもって叱るべきである。


(第三者の大人は、子ども同士のけんかにはやたらと首を突っ込まないことである。大抵、真逆の教育になる。)




子どもは、自然に定められたように伸びる。


一方で、子どもは育てたように育つというのも真理。


子どもは、ジャングルの伸び放題の植物ではないし、かといって盆栽でもない。


光に当てて自然に伸びるのを見守りつつ、必要な水と栄養は与え、社会に適応した形に手入れをするのが教育の在り方である。


その内、それを必要としない大木に育つかもしれない。




人を育てるのは、信賞必罰。


醒めた目と温かい心。




どちらも教育の真理を突いた言葉である。

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