教育における、褒めると叱るということへの誤解について。
褒めると叱るはバランス、というのは割と世に広がってきている。
一方、褒めてはいけない、叱ってもいけない、認めよというのがアドラー心理学の立場である。
どちらも理論としては正しいのだが、理解する側が誤解すると、どちらも誤りになってしまう。
褒めると叱るはバランスというより、使う場面次第で両者とも薬にも毒にもなり得る、というのが真理である。
ある考えは、自分というフィルターを通して自分のものとなる。
フィルターを通してどう解釈するかに全てがかかっている。
フィルターとは、観である。
観が大切なのである。
今回の話題に関連して、次の本を紹介する。
著者の渡辺和子氏はシスターである。
累計200万部越えのベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』の著者といったらわかる人もいるかもしれない。
さてこの本の中に「醒めた目と温かい心」という項目があり、そこから引用する。
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(引用開始)
醒めた目で子どもをしっかりと見つめ、
叱るべき時には、はっきり叱り、
誉めるべき時には、しっかり誉めて、
どんな時にも子どもに変わらない愛情と、
導いていく温かさをもつ時、
子どもは、親の顔色や機嫌を見ることなく、
良いことと悪いことのわかる子に育ってゆきます。
(引用終了 改行は松尾による)
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教育とは、これである。
叱るべき時にはっきり叱る、誉めるべき時にしっかり誉める。
これはアドラー心理学でいう「認める」とも通じる考え方ではないか。
即ち、ある事象を「見て留める」である。
子どもは、他の動物と同様、小さな命を平気で殺してしまうことがある。
それは、善悪の基準というのが、文化的に定められたもので、教えられて初めてできることだからである。
(宗教で特定のものを食べるのが悪、と信じるということと根本原理は同じである。)
善悪の基準をもたない子どもに、それを与えるのが教育の役割である。
即ち、教育は文化的な行為であり、意図的な行為である。
ただ自然のそのままに育つ、というのは教育ではない。
もし自然のままが教育的に正しいなら、野生に放てば人間が立派に育つということになる。
完全に野生で育った場合、それは「ヒト」であっても社会的な人間とはなり得ないことを証明したのが「オオカミ少女」の実例である。
この本を読んだのと同時期に、師の野口芳宏先生が
「信賞必罰」
という話をサークルでしてくださっていた。(正確には、それを動画で見た。)
これこそが教育において大切ということである。
どういうことか。
私が話を聞きながらとった電子メモをそのまま以下に載せる。
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人を育てるには、信賞必罰でなくてはならない。(あるいは必賞必罰)
賞=ほめること
信=まこと
褒めるに値することを必ず褒めること。
叱るべき時には、遠慮せず叱る。
これは時代を越えた教育の原理。
何でも耳に心地よい言葉しか受けずに育った子ども。
社会はそうでない。
ただし、ケアの心も大切。
苦しんでいる人に信賞必罰は必ずしも当てはまらない。
相手の人格を尊重し、ケアする心遣いも必要。
信賞必罰とケアの両方を。=公平無私
これを日常生活の指針に。
その一日一日が積み重なること。
人生が慈悲に彩られる。
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この逆をいかないことである。
褒めるに値しないことを褒めれば、子どもはそれがいいことと勘違いをする。
叱るべきところを叱らずにいれば、子どもはそれが悪いことではないと勘違いする。
もっとよくないのは、褒めるべきところで叱り、叱るべきところで褒めること。
こうすれば、自尊感情が傷ついた、受け身のひねくれものの出来上がりである。
そうしないためにはどうするか。
次号で続きを書く。
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