2020年12月5日土曜日

信賞必罰・醒めた目と温かい心

 教育における、褒めると叱るということへの誤解について。


褒めると叱るはバランス、というのは割と世に広がってきている。

一方、褒めてはいけない、叱ってもいけない、認めよというのがアドラー心理学の立場である。


どちらも理論としては正しいのだが、理解する側が誤解すると、どちらも誤りになってしまう。

褒めると叱るはバランスというより、使う場面次第で両者とも薬にも毒にもなり得る、というのが真理である。


ある考えは、自分というフィルターを通して自分のものとなる。

フィルターを通してどう解釈するかに全てがかかっている。

フィルターとは、観である。

観が大切なのである。


今回の話題に関連して、次の本を紹介する。


『愛と祈りで子どもは育つ』渡辺和子著 PHP文庫


著者の渡辺和子氏はシスターである。

累計200万部越えのベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』の著者といったらわかる人もいるかもしれない。


さてこの本の中に「醒めた目と温かい心」という項目があり、そこから引用する。

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(引用開始)

醒めた目で子どもをしっかりと見つめ、

叱るべき時には、はっきり叱り、

誉めるべき時には、しっかり誉めて、

どんな時にも子どもに変わらない愛情と、

導いていく温かさをもつ時、

子どもは、親の顔色や機嫌を見ることなく、

良いことと悪いことのわかる子に育ってゆきます。

(引用終了 改行は松尾による)

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教育とは、これである。

叱るべき時にはっきり叱る、誉めるべき時にしっかり誉める。

これはアドラー心理学でいう「認める」とも通じる考え方ではないか。

即ち、ある事象を「見て留める」である。


子どもは、他の動物と同様、小さな命を平気で殺してしまうことがある。

それは、善悪の基準というのが、文化的に定められたもので、教えられて初めてできることだからである。

(宗教で特定のものを食べるのが悪、と信じるということと根本原理は同じである。)


善悪の基準をもたない子どもに、それを与えるのが教育の役割である。

即ち、教育は文化的な行為であり、意図的な行為である。


ただ自然のそのままに育つ、というのは教育ではない。

もし自然のままが教育的に正しいなら、野生に放てば人間が立派に育つということになる。

完全に野生で育った場合、それは「ヒト」であっても社会的な人間とはなり得ないことを証明したのが「オオカミ少女」の実例である。


この本を読んだのと同時期に、師の野口芳宏先生が

「信賞必罰」

という話をサークルでしてくださっていた。(正確には、それを動画で見た。)

これこそが教育において大切ということである。


どういうことか。

私が話を聞きながらとった電子メモをそのまま以下に載せる。


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人を育てるには、信賞必罰でなくてはならない。(あるいは必賞必罰)

賞=ほめること

信=まこと

褒めるに値することを必ず褒めること。

叱るべき時には、遠慮せず叱る。

これは時代を越えた教育の原理。


何でも耳に心地よい言葉しか受けずに育った子ども。

社会はそうでない。


ただし、ケアの心も大切。

苦しんでいる人に信賞必罰は必ずしも当てはまらない。

相手の人格を尊重し、ケアする心遣いも必要。


信賞必罰とケアの両方を。=公平無私

これを日常生活の指針に。

その一日一日が積み重なること。

人生が慈悲に彩られる。

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この逆をいかないことである。

褒めるに値しないことを褒めれば、子どもはそれがいいことと勘違いをする。

叱るべきところを叱らずにいれば、子どもはそれが悪いことではないと勘違いする。


もっとよくないのは、褒めるべきところで叱り、叱るべきところで褒めること。

こうすれば、自尊感情が傷ついた、受け身のひねくれものの出来上がりである。


そうしないためにはどうするか。

次号で続きを書く。

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