最近、感銘を受けた言葉。
私がずっと以前から尊敬しているある先生から教わった言葉である。
「晴れの日の論理」という言葉である。
これは晴れの日、つまり、順調な時に有用な論理という意味である。
晴れの日には、洗濯物を外に干すと気持ちが良い。
太陽の日を浴びて、すっきりするだろう。
他にも、晴れの日ならではのことはたくさん挙げられる。
紅葉狩りだって海水浴だって、晴れの日だからこそおすすめできるレジャーである。
一方、雨の日の論理というのがある。
雨の日は、ほこりや花粉が飛ばなくていい。
部屋で静かに過ごしたい時にも、雨のさやさやとした音が耳に心地よくていい。
アジサイは、雨あがりが一番きれいである。
他にも、雨の日ならではということはたくさんある。
これを、逆に適用してはいけないということである。
晴れの日の論理を、雨の状態の人に適用すると、非常に迷惑なことになる。
雨の日の論理を、晴れでアクティブにいこうとしている人に適用しても、やはり迷惑である。
実際の生活で考えると、いわゆるポジとネガの関係である。
辛い思いで落ち込んでいる人に対し、元気いっぱいな人が「前向きに生きていこう!」と爽やかにアドバイスしても、害悪になり得る。
辛い思いをしている人の話し相手になれるのは、同じような辛い思いをしたことのある人である。
逆に、前向きに生きて社会を自ら変えていこうと希望を抱いてがんばっている人がいるとする。
それに対し「あなたみたいなポジティブな人といると疲れる」「世の中なんて変わらないよ」などと言う人がいても、害悪である。
こういう前向きになっている人には、現場で前向きにがんばっている人がアドバイスをした方がいい。
(だから、大人が子どもの夢に対しあれこれ口出しするのは、大概害悪にしかならない。
その子どもの夢を、その大人自身は実現したことがないからである。
相談をするなら、それを実現している人にするに限る。)
この言葉を知って、私は、自分自身の言動や著作を振り返ってみて、一つの気付きを得た。
私がアドバイスできるのは、私がやってきたことだけである。
著作などを振り返ってみても、全て自分が実践してきたことだけである。
さらに言うと、私が本当にアドバイスできるのは、子どもの成長のために自分の力を捧げたいという意志のある人だけである。
「仕事で楽をしたい」「収入が安定しているから教師になりたい」「子どもの心を操作するには」という発想の人に対し、アドバイスは一切できない。
それは、そういうのが得意な人もいるだろうから、そちらの方に学ぶのがいい。
もっていないものは出せない。
ここで思い出すのが、先日のメルマガでも書いた「信賞必罰」の話である。
これは時代を越えた不変の原理である一方、傷ついている人には使えない。
傷付いている人には、指導よりも支援、ケアである。
「指導」を晴れの日の論理とすると、「支援」は雨の日の論理である。
「叱る」は晴れの日の相手には比較的きちんと届くが、雨の日の人は落ち込み過ぎてしまう可能性がある。
「ほめる」は雨の日の相手には自信を回復させる効果があるかもしれないが、晴れの日の人は勘違いする可能性もある。
人を見て法を説けという諺もあるが、これも同じである。
相手によって、適用すべき論理も異なる。
今目の前にいる人には、どちらが適切か。
人によって毒にも薬にもなる、ということを念頭において言葉を選びたい。
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