「言いたいことを言っていいんだよ」
「困ったことがあったら何でも相談しなさい」
「トラブルはすぐ報告して。一緒に解決しよう。」
そんなことを言う上司や先輩がいるとする。
素敵なことである。
しかし。
実際に相談すると、たくさん小言を言われる、
単に辛い気持ちを分かって欲しかっただけなのに、ダメ出しされてアドバイスされる、
トラブルを報告すると、「何でそんなミスをしたんだ!」と怒るばかりで、一切責任をとってくれようとしない、
周りもそれがわかっていて、仲間がミスをしても黙って見ているだけで「我関せず」を決め込む。
まあ、こういうことが続いていれば、確実に風通しの悪い風土が出来上がる。
学級経営も同じである。
子どもはミスをして当たり前である。
前提である。
新しいことにチャレンジしたら、何かしら失敗する。
その責任を取るのが担任の仕事である。
子ども自身の失敗を教えてくれたら「教えてくれてありがとう」と言って解決に目を向けることである。
(ケガや公共の物品破損、紛失等の報告もこれに当たる。)
一方、責任を取りたくないとなると、何もさせないことになる。
下手なことをさせたら、管理職や保護者にも何を言われるかわからない。
細部にわたってルールを作り、それに従わせる。
言われた通りに動く優秀なロボット候補の子ども「一丁上がり」である。
(特に今の時期は、何かと規制が多いので、よくよく気を付けないとこれになりがちである。)
挑戦させるには、リスクが伴う。
そこへのリスクヘッジを十分にした上で、リスクをとる。
子どもを外で遊ばせるの一つだって、リスクである。
遊ばせなければ、まず余計な責任は取らなくて済む。
例えば、子どもを学校のグラウンドで遊ばせれば、ケガも起きる。
子ども一人当たり一日のケガの発生確率を1%に抑えたとしても、35人いれば3日に1回は誰かがケガをする計算である。
その時すべき指導は、端的に言うなら
「なるべくケガをしないように、自分が気を付けなさい」である。
鬼ごっこをして誰かとぶつかったという場合であっても「よける」ができなかったのは、自分の運動能力に責任の一端がある。
そこを自覚させていかないことには、子どもは安全に遊べるようにならない。
「〇〇ちゃんがぶつかってきた」と本人が被害者であることを主張している間は、成長しない。
その上で、ケガが起きてしまった時は、担任が対応するのである。
外で遊ばせている以上、全くケガが起きないという都合のよい状況は有り得ない。
都度「次は同じケガをしないように気を付けなさい」を伝える。
これしかないのである。
話を元に戻すと、上に立つ人間は、責任をとる覚悟が必要ということである。
責任をとるのが嫌ならば、自由を完全に奪い、ぎゅうぎゅうに管理するしかない。
しかし、実際は、きつい管理の元にこそ、大きなトラブルは発生するというのが現実である。
(例えば外で十分に遊ばせてもらえなかった子どもは、躓いて転んだというような小さなことでも、大怪我をする。)
相談できる上司や担任というのは、責任をとって解決に乗り出してくれる人である。
失敗した時に「次がんばれ」と励ましてくれる存在である。
トラブルの報告を「よく言ってくれた」と喜んでくれる上司である。
悪いことをしたのを正直に話した子どもに「ありがとう」が言えることである。
この辺りの条件が揃っていない以上、いきいきとした集団は生まれてこない。
このようなリーダーの姿勢があって初めて、いじめのような根深い問題にもやっと踏み込んでいける。
学校に限らず、陰湿ないじめが蔓延っているのなら、その集団のリーダーに責任がある。
オープンな職場、学校に必要な要素は、やはりリーダーの在り方が大きいと考えた次第である。
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