メルマガ上で勤労感謝の日辺りに書いた記事。
クリスマス前に時期外れだが、記録として転載しておく。
勤労感謝の日は、一生懸命に働いている自分が神様のように感謝される日、ではもちろんない。
私は常々「一生懸命は当たり前。努力するのは当たり前。」と考えている。
自分にも言っているし、教えている子どもたちにも言っている。
仕事や勉強に対し、一生懸命やる、努力するなどというのは「前提」であり、人様からわざわざ褒めてもらえるようなことではない。
なぜなら、努力のすべては、結局最終的には自分のためだからである。
恐らく、仕事や勉強で一生懸命やっても結果が出ずに周囲の評価がよろしくない時、
「こんなにがんばってるのに!」
という思いになる。
しかしこれは、残念ながら単なる独りよがりである。
仕事というのはとてもシビアな面があり、結果が出ないことには評価されない。
人間的には認めていても、それとこれとは、話が別である。
算数の計算のようなものであり、正解の数がきちんと出ることが求められる。
(そもそも、一生懸命やりさえすれば正解できるというのは、大きな思い違いである。)
勉強も同じで、テストやレポートでは、がんばっていようがいまいが、正誤に対し点数という結果になって出てくる。
たとえ本人の努力する過程は認めていても、誤っている、提出物の出来がよくない以上、高得点は出せない。
それはやり方を変えて結果を変えよ、ということである。
仕事における結果とは、他者貢献の度合いである。
自分に役割として求められている貢献ができているかどうかである。
そこを工夫しなさいということである。
そして私たちは、その職場や仕事そのものに対し、つい意識下で「働いてあげている」と思ってしまう節がある。
逆である。
仕事として、役割をいただき、働かせていただいているのである。
世の中に少しでも貢献することで、普段周囲から受けているとてつもない恩恵への一部恩返しをしているだけである。
世の中の役に立てるということは、生きがいの一つになる。
人間は生きているだけで「存在価値」はあるのだが、仕事をすることで「機能的価値」の面をもつことができる。
自分の能力の提供であり、世の中の役に立てているという実感である。
だから、仕事が見つからない状態、あるいはできない状態というのは、生活的な苦しさだけでなく、そういう面でも苦しい。
学級の中で、当番活動や係活動というものがある。
例えば日直の司会進行、給食当番、掃除当番、新聞やレク等の各種係、などである。
これらはキャリア教育の一環であり、学級内における自分の役割をもつことで、機能的価値を発揮できる場である。
それが結果的に「あなたがいないと困る」ということになり、自信につながる。
だから学級においては、子どもたちが役割をもち、自分たちが教室のオーナーという意識をもって運営に携わることが重要なのである。
自治的学級づくりを目指すことが、子どものあらゆる能力と自信を伸ばす基盤になる。
これは職場内にもいえる。
学年内(会社なら部署内)の職員として、自分は何が仕事として貢献できるのか。
これをそれぞれが自覚できる職場は、単なる「集団」ではなく「チーム」であり、強い。
自分一人があれもこれもできる必要はない。
自分の最大の得意分野に全力をつくして、貢献すればよい。
サッカーに例えるなら、全員がゴールキーパーとしてがんばるより、色々なポジションで役割分担するのがチームである。
自分には何も能力も取り柄もないと嘆く人なら、誰よりも動くことである。
人が面倒がること、あるいは誰でもできることを、誰よりも進んでやってみせる、やり続ける人に、人は必ず敬意をもつ。
同じくサッカーで例えるなら、下手でもとにかくゲーム中の運動量が他の誰よりも多い選手になることである。
チームへの貢献度を上げることこそが、自分の機能的価値を高める術である。
社会での役割を持てること、即ち勤労できることは、感謝すべきものである。
自分に役割を与えていただけたのである。
自分が生かされていることへ感謝する日である。
この祝日のそもそもの起こりが「新嘗祭」であり、五穀豊穣、食べ物への感謝の日である。
太陽と地球の恵みに感謝する日であり、生かされている、生きることを許されていることへの自覚をする日である。
感謝する以外にない。
本当に働くのが嫌なら、辞めてしまえばいい。
明日から来ない、やらないと言えばいい話である。
残念ながら、私が辞めた代わりに、それをやりたいという人が必ず見つかる。
再三サッカーで例えるなら、自分がレギュラーとして占めていたポジションをずっとやりたがっていた人が必ずいる。
仕事を辞めることは、現実的に可能である。
自分の意思決定で、100%決められる。
それでも働いているのは、辞める方を選ばず、働く方を自分で選んでいるからである。
例えどんな経緯であれ、最終的には、自分が「やる」と選んだ仕事である。
私などの場合は、わざわざ自分から志願して試験まで受けさせてもらって、採用してもらった身である。
もちろん、仕事をしていれば、嫌なことなど山ほどある。
ただもっとこうしたいという思いはあれど、仕事をさせてもらえることへは感謝の念を忘れないよう、意識している。
それは、他者に無暗に服従するということではなく、自ら進んで選んでいるという主体的な態度である。
勤労感謝の日は、自分が他に生かされていることを自覚する日。
仕事ができることが有難いと思えていたら幸せなことである。
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