前号で「子どもの前の言葉遣いや恰好はできる限り丁寧に」ということを書いた。
なぜなら、教師の立場はどうしても、「標準値」が低くなりがちだからである。
社会においての立場の上の方(特に外部)を相手にする機会が少なすぎるためである。
(教師の世間知らずは何十年も前から揶揄されているところである。)
普段相手するのが、子どもだからである。
だからこそ、努めて丁寧にする必要がある。
ここで、
「教師は上の立場でなくてはならない」
「立派でなくてはならない」
そんな風に思ってそれをやろうとすると、色々とややこしいことになる。
逆である。
大して偉くもないのに、偉くなったような気がしてしまうからである。
1年目にしていきなり35人の人々の「リーダー」である。
いや、全校児童と考えると、700人のリーダーかもしれない。
おかしくなるのも当然である。
偉い人というより、エラいことになる。
だからこそ、外側から整えるのである。
せめてある程度きちんとした身なりと言葉遣いを心がける。
それだけで、「勘違い」を少しばかり防げる。
ちなみに、最初はかなり違和感がある。
大学生まで、かなり乱れた言葉を使っていたのである。
ファッションもやりたい放題だったのである。
今更人前で年下相手に「私は」などということも恥ずかしいぐらいである。
(ちなみに、「わたくし」という一人称を使うと、他の全ての言葉と動作がしなやかになるという。
これは、わかっていても、使うにはなかなかレベルが高くて難しい。)
しかし、その違和感をもっているのは、実は自分だけである。
子どもはそんなこと知る由もない。
自分が勝手に決めた「キャラクター」である。
逆に学生時代にどんなに優秀で通っていても、社会に出たら「単なる若造の一人」でしかない。
だから、努めて丁寧でいいのである。
やっている内に、板につく。
ふとした時に慣れ親しんだダメなキャラクターも覗くが、それも「ご愛嬌」である。
ちなみに、小学生辺りの子どもの「私ってこんな人」「これが好き」は、ほぼ親の「刷り込み」である。
本当の自分については、多分わかっていない。
(何なら刷り込みの少ない乳幼児期の方がわかっているかもしれない。)
どうせなら、大いなる勘違いをさせて前向きに努力させる方がよいかもしれない。
動いてさえいれば、やがて自分の本当の才能に目覚める。
話を戻す。
断じて言う。
基本、丁寧でよい。
私自身の過去を振り返ってみても、痛いミスの多くはこの丁寧さの欠如によるものである。
しかしながら、これも年齢による部分は大きい。
若いうちは、血気盛んである。
それは自然でいいので、「子どもの前では丁寧にしよう」と少し心がける。
それで、丁度バランスのいい状態になるのではないかと思う、老婆心である。
2020年1月28日火曜日
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