不登校と過労死の関連について。
以前から何度も書いているが、不登校は、確実に「問題」である。
誰にとって。
「学校」という存在にとってである。
あるいは、そこを「問題」と思う教師や親という立場の人々にとってである。
本人にとって問題かどうかは、本人次第というところである。
学校という存在が絶対的な善である、と言い切れるか。
各子どもに完全なオーダーメイドができる仕組みがあるなら別だが、現状それは無理である。
つまり、これは言い切れない。
子どもが朝、「吐き気」「頭痛」「腹痛」を訴える。
学校を休むことにして、連絡した。
すると、ぴたりと止まった。
これは子どもの「気のせい」ではないし、親を騙そうと演技した訳でもない。
行かなくてもいいから、危機を脱したということで、身体が苦痛反応を止めたのである。
生来備わている身体メッセージの機能が正常に働いている証拠である。
子どもは素直だから、生物としての直感的な反応がダイレクトに身体症状として出る。
大人はこれを理性で抑え込んで無視し続けるため、再起不能に近くなるまで無理をする。
過労死は、理性で身体のメッセージを無視し続けるからこそ起きる現象である。
子どもが「学校に行きたくない」と言ったり身体反応が出たら、理由が必ずある。
「何となく」にも、探っていけば理由がある。
学校でいじめなどの心配事があるのかもしれないし、友人関係で悩んでいるのかもしれない。
勉強がさっぱりわからないのかもしれない。
学校のカリキュラム自体が本人に合っていないのかもしれない。
(勉強嫌いや競争嫌いなのに、バリバリの進学校に行くのは最も悲惨である。)
あるいは、母親ともっと一緒に過ごしたいのかもしれない。
根源である愛情エネルギーが不足していれば、外の活動どころではない。
最も多いのが、単に「疲れてしまったからちょっと休みたいだけ」かもしれない。
大人と同じである。
とにかく、何らかの原因があるはずである。
単にちょっと疲れただけなら、一日二日休む内に、もう大丈夫と言い出すかもしれない。
心配しすぎたり、行かないといけないと追い込みすぎたりすると、裏目に出て、逆の行動に出ることもある。
(「押すなよ、押すなよ」の原理である。ダメと言われるほどそちらに行く。)
要は、根本的な解決対策を取らないで無理をさせれば、より悪い結果を招く可能性が高い。
だから、親は子どもがそういうことを言っても何とか登校した場合、学校に一報を入れた方がよい。
教師の側も「何も問題ない」と思って見るのと、「何かあるらしい」と思って見るのでは、見えるものが違う。
これは一般社会でも同じである。
新卒が3年以内に辞めてしまうということが問題になるが、ここで会社の側が問題になることはない。
会社の側が社会から問題として吊し上げられるのは、社員が過労死した場合である。
「身体メッセージを無視してでも頑張ることが大切」という誤学習を繰り返した結果が、この過労死である。
本来は死ぬより前に、「これはダメだ」と気付いて休むか辞めるかするはずである。
「辞める」が「過労死」よりも遥かに健全なのは、明白である。
元気ややる気がないなら、何かあると考えるのが正常である。
そして、この手の問題は、忙しさそのもの以上に、やり甲斐の問題であることも多い。
本人が「自分は役に立てている、成長している」と感じられていれば、多少失敗して叱られていようが何だろうが、続けられる可能性が高い。
部活動に打ち込んでいる学生時代と同じである。
やっていることが「無意味」「自分に合っていない」と感じてしまうと、急激に辛くなる。
だから、リーダーは、やっていることへの意味付けや、励まし、ケアが大切になる。
大きな方針、目標を示すことが大切になる。
自分たちのやっていることが、人々の幸せに貢献しているとわかることが大切である。
よくレンガ職人の仕事で例えらえるが
「ただレンガを積んでいるだけ」と考えているか
「人々を救う大聖堂を造っている」と考えているかで、仕事の意味は180度変わる。
学校に、意味を見出せない子どもたち。
学校は、これに正対しているといえるか。
「勉強ならeラーニングで十分」「塾の方が点数を取るにはいい」という考え(あるいは事実)に、どう答えるか。
教師には、子どもが学校に来る意味を、きちんとわかりやすく伝える責務がある。
「いじめられる」「無視される」とわかっている子どもに、「それでも学校に来なさい」と言えるか。
その原因への対策を打たずに、とにかく来させることは、身体メッセージの無視と全く同じであり、横暴である。
「不登校は悪」みたいに単純に扱われると、辛い思いをする人が増えるだけである。
もしかしたら、子どもが正しい選択をしているのかもしれない。
だからといって、不登校による本人への社会的デメリットは、無視できない大きさがある。
だから周囲はそれを無条件に受け入れるのではなく、その理由を探り、本人にとって本当によい対策をうつ必要がある。
学校の問題は、どれも社会の縮図である。
社会は、現時点で大きく変わっている。
個人の能力や適性に合った働き方が認められてきている。
在宅勤務も全く珍しいことではない今、学校の在り方も多様化してくることは間違いない。
仕事の在り方が変わってくるように、学校の在り方自体も、変革が必要である。
学校は、何のために行くのか。
学校教育に完全適応することにデメリットも、考えるべきところがある。
現状で自分にできることはやるが、制度自体の変革も起き得ると考える昨今である。
2020年1月6日月曜日
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