2020年1月12日日曜日

保身から献身へ

最近思っていること。

教育だけでなく、社会全体の問題の根本。
それは、「保身」である。

以前にも書いた「loveさえなければpeace」も同じ原理である。
https://www.mag2.com/p/news/260236

要は、我が身がかわいいゆえに、全ての間違いは起きる。

自分の学級さえよければいいから、隣の学級の崩壊が起きる。
保護者のクレームが怖いから、子どものためを思った毅然とした指導や保護者への要望ができない。(そして子どもが悪くなる。)
社会に叩かれるのが怖いから、学校が隠蔽する。
学校の責任にしたくないから、学校外の責任にする。

自分が責任を取りたくないから、実行した部下のせいにする。
自分が至らないからと認めたくないから、他人のせいにする。
自分の「失敗」を認められないから、他人のせいにする。
(実際は、挑戦した場合の「失敗」と言われるものと、保身による失敗は、名称が同じの全く別物。)

どれもこれも「保身」が原因である。
保身は、諸悪の根源である。

保身の対極にある姿勢が、献身である。
あるいは、責任をとる姿勢である。

自己の負担があっても、本当に相手のためを思うから、進んで行う。
本当に世の中のため、人のためを思っているなら、言うべきことを言う。

悪い時は、謝るしかない。
一方で、悪くないのに謝るのはよくない。
それこそが「丸く収めよう」という保身である。

献身の姿勢でいくと、実は誰よりも自分が楽になる。
卑近な例でいうと、席に座るよりも、必要な人に譲る方が、心も体も楽になる。
もっと大事な場面でもいえる。
前にも書いたが、被災地のような困難な状況であっても元気な人は、人を助けようと世話をしている人である。

ここで注意点は、献身をしても、犠牲にならないこと。
「犠牲」と感じるようにやると、結局辛くなる。
「犠牲」と感じてしまった時点で、保身に走っている。
(我が身がかわいいから、犠牲という言葉が出る。)

全てを譲る必要はない。
自分よりもそれが必要な人には、譲るという程度でよい。
目の間に杖をついたお年寄りがいたら、自然に席を譲れる精神になるはずである。
この当たり前の行為の対象を、少し広げていく程度でよい。
そうやっていると、勝手にもっとよいものが手に入ってしまうというのが真理である。

「自分が」の保身の人が集まると、全てが争奪戦で何もかも足りなくなり、自分も不幸になる。
「お先にどうぞ」の献身の精神の人が集まると、全ての人に行き渡り、自分も幸福になる。

何より、保身は、みっともなくて格好が悪い。
献身は、見た目も中身も格好いい。
「自分はそんなキャラじゃない」とか言って自分を決めつけず、格好つけてみるのも大切である。

保身から献身へ。
自分を身を献上して生かすことが、結果的に真の意味で身を保つことにつながると考える次第である。

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