大学で、クレームにつながるような事例を扱い、その対応について話し合う場があった。
その中で、
「明るさ」が「軽さ」に見えてしまっているのではないか。
という発言が出た。
まだ社会での現場経験のない学生の発言である。
これは、非常に的を射た指摘である。
(実際に、今まで教えを受けた歴代の「先生」達に対し、そう見えていたのかもしれない。)
ここについて考える。
学校を含め、世間ではいわゆる「フランク」で良いという風潮が何となく感じられる。
カジュアル志向である。
ただ、これを真に受けて一概に取り入れるのは、間違いの元である。
特に、教師という仕事について言えば、尚更である。
現場教師には、フランクさ以上に、子どもへの丁寧な対応が求められる。
職場の若年化が進んで、保護者の方がずっと人生経験も何もかも上だから、一つ一つが「テキトー」だと、何かと不安なのである。
つまり、ただでさえ色々と至らないのだから、服装や言葉遣いぐらいは丁寧な方が、何かと都合がよい。
そうした上で初めて「授業が下手」なのも、まあ仕方ないと思ってもらえる。(可能性がある。)
だから実習生には
「きちんとしすぎ、丁寧すぎると思うぐらいで丁度いい。」
と教えている。
保護者の声が「クレーム」に発展してしまうのも、ここが無視できない。
保護者に対応する時の服装や言葉遣いを言っているのでない。
(ここもよろしくないことが多いかもしれないが。)
普段の、日常の振る舞いが保護者には全て伝わっている、ということである。
子どもに対する時も、多くの人は自分の中で「丁寧すぎる」「準備しすぎる」ぐらいで丁度いいのである。
(余程育ちが良くて教養の高い人なら別であるが。)
そこを意識してやっと、「教師の子どもに接する態度として許容できる」のぎりぎりラインである。
本人としては、くだけることで「明るくフランク」なイメージを与えて親しみやすさを出したいのかもしれない。
しかし、スタートライン自体が保護者から見て十分「下」すぎる。
単なる「横柄で無礼でテキトーな人物」に見えている可能性がある。
(「無礼講」で本当に上司に無礼をしてしまうような人である。)
だから、丁寧すぎるぐらいで丁度いいのである。
子どもへの接し方が、そのまま保護者への接し方なのである。
そのクレームは、その事件・問題そのものが根本的な原因か。
もしかしたら、もっと日常の根本に原因があるのかもしれない。
「明るさが軽さに見えていないか。」
現役の学生から全ての現場教師に向けた、なかなかに含蓄のある指摘である。
2020年1月26日日曜日
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