道徳の教科書教材にある
「いやな気もちかもしれないよ」
というテーマで、話合いの授業をした。
運動で、失敗した人を笑う。
「好きな人」とだけ遊ぶ。(この言い方自体が嫌である。)
そういう状況について、考えを伝え合う授業である。
当然
「失敗を笑わない」
「誰とでも仲良くする」
といったお決まり&ありきたりの答えでお茶を濁すようなことはしない。
「ちなみに、できていないよね?やっちゃってるよね?」
を自分自身に突き付けて考えるというのが、基本スタイルである。
この時には
「差別だ」「誰とでも協力しないといけない」
という意見が出た。
そこで「では、このテーマについて、自由に立ち歩いて話してください。」
という指示を出した。
どうなるか。
あちらこちらで話合いが始まるが、よく見れば
「いつもの友達」だったり「男子のみ」「女子のみ」で話し合ったりしてるところが大半である。
この事実を突きつけるところが肝である。
立派なことを言うけど、道徳とは正反対の行動で、全くできていない。
大人も子どもも関係なく、全く一緒である。
教えている側も、大抵は全くできていないのが現実である。
ここで考えるべきは
「失敗を笑わない」「誰とでも協力すべきだ」という表面的なお題目ではない。
「なぜ、私たちは、だめとわかっている方の行動をとってしまうのか」
ということを、自分の「事実」をもとに話し合う必要がある。
非論理的な行動に走ってしまうのが人間である。
生来が不道徳だから、道徳を教える必要性が出てきたのである。
「自分勝手」が基本なのである。
原始的に常時「競争」の本能が働いているため、理性をフル稼働しないと「謙譲」の精神は出てこないのである。
だから、いつも道徳的であるというのは、原理的にかなり無理がある。
これは「子どもだから」という訳ではない。
子どもでも立派な精神をもっている人はいる。
大人なら、誰しも立派な精神をもって道徳的に日々を生きている・・・・・・とは、言わずもがなである。
子どもは、大人の社会を見て生きている。
大人がどんな社会を見せているかは、重要である。
学校では、どういった価値観が共有されているかも重要である。
道徳では、よりよい生き方を求める。
ただ、1年生の子どもだって、あるいは幼稚園児だって、何がいいかぐらいはわかっている。
「いじめや差別はダメですよ」なんてことは、身をもってよく知っている。
そこをそのまま教えても意味がない。
そのためには、わかっているのにあまりよろしくない生き方をしてしまう自分を見つめるところからである。
(それには、実はそれを教える大人からである。)
道徳の授業は、難しいといわれる。
それは、教える側が、自分もできていないことを知っているのに、目を背けて教えようとしているからかもしれない。
2020年1月8日水曜日
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