働き方改革について。
「時短」という言葉がある。
無駄な時間をなくすのが目的である。
しかしながら、無駄な時間とは何か。
例えば、仕事の質を上げるために、あれこれ工夫して精を出す時間は無駄か。
教師でいえば、授業の準備をすれば、子どもと向き合う時間の質が高まる。
その目的が変わると、無駄になるかのもしれない。
授業の準備をして、楽しい授業をして子どもの幸せに貢献したいという欲求が、自分が良く見られたいという欲求に変化する。
そうすると、それが初めて「無駄な時間」になる。
研究授業などで陥りがちな罠である。
時短の目的は、無駄をなくすことによる多忙解消のはずである。
しかしながら、問題の本質は、多忙そのものというより、多忙感が問題なのである。
勤務時間そのものより、勤務時間内にしている内容への意欲の低さ(無駄感)が問題なのである。
ここに、乖離が生じる。
部下の時間管理を任されているリーダーは、「とにかく定時に退勤させること」を命じられる。
それ以外に。「上」に示す指標がないからである。
部下がどんなに意欲をもって「もっとやらせてください!」と目を輝かせてやっていても、残業は「失敗」である。
「上」から見て働き方改革が成功したか否かの指標は、部下の時間外の勤務時間が減ることだけである。
働いている側からすれば、意欲をもってやれている時間には、どんなに多忙であっても多忙感はない。
一方、心の中で「無意味」と思っている作業をやるのは、例え5分であっても苦痛なのが人間である。
好きなことであれば、何時間でも没頭できる。
今の時代、仕事が趣味というと一般的に悪い響きがあるが、趣味のように心から仕事に没頭できたら、疲れ知らずで無敵である。
教師である自分自身の場合を振り返って考える。
疲れる時はどういう時か。
自分なら、「成績処理」の期間。
放課後の時間を確保するべく、特別日課で休み時間等がカットされてどんどん進む。
そうすると、当然子どもが早く帰るので、成績をつけるための作業時間は増える。
一方、子どもたちと向き合う時間は大幅に減る。
とにかくゆとりがないので、バタバタと日々が過ぎる。
ここで立ち止まって考える。
教師になってやりたいことは何か。
これが「私は成績をつけるために教師になりました!」というのであれば、この場合幸せである。
そんな訳ない。
教師になった人の多くは「子どもと共に〇〇」ということを願ってなっているはずである。
子どもと向き合う時間を削っていったら、本末転倒である。
(しかしながら、通知表作成の業務がある以上、この期間があること自体は有難い。)
単に多忙なのか、多忙感をもって働いているのか。
勤務時間の多寡ではわからない世界である。
働き方改革で何がしたいのか、真剣に向き合ってみたい。
2020年1月10日金曜日
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