人間というのは、苦労して得たものに価値を見出す。
渇望している時に得たものに感動するほどの喜びを覚える。
あるはずのものが不足し、それが手に入った時に、有難みに気付く。
つまりは、「不足が感動・感謝を生み、幸福につながる」と考えた次第である。
不足は幸福の母である。
逆にいえば、不足を感じずに充足された場合、価値も感動も感謝も生じない。
それは、まことに不幸なことである。
私の大好きな寓話に、「王様のご馳走」のお話がある。(子どもの頃きいた話で、出典がわからない。)
あらゆるものが何でも手に入り、世界中の料理を食べ尽くしたグルメの王様がいる。
国一番の料理人を呼びつけ、未だ食べたことのない最高に美味い料理を出せという。
料理人は承知し、ただ、その料理はお城の中では食べられないと伝える。
料理人は王様を連れて山を越え谷を越え、歩き続ける。
馬車の入れない山道なので、王様も一緒に歩くしかない。
「まだ着かないのか」「もう少しでございます」
「何か食べるものはないのか」「世界最高の料理を召し上がっていただくので、ご辛抱ください。」
王様は空腹が限界に達する。
「お腹がペコペコで、もう歩けない!」
(そもそも、ぐうたら暮らしていたせいで、体力も根性もないので、音を上げるのも早い。)
そこで料理人は「世界最高の料理」を出す。
何と、具も何もないただの「塩むすび」である。
王様は、貪るようにそのおにぎりにかぶりつく。
「こんなに美味いおにぎりは、生まれて初めてだ」
と感動する。
そんなお話である。
私はおにぎりと聞いたが、外国の話だから、もともとの話では一切れのパンなのかもしれない。
おにぎりだろうがパンだろうが、どこにでもある普通の食べ物である。
それを「世界最高」と感動させた隠し味は、空腹感、つまり、不足である。
不足による必要感こそが、ものの真の価値を照らし出す。
万事に通用する真理である。
崇高なものに対してから卑近なことまで、あらゆることに適用できる。
私の好きな、パナソニック創業者の松下幸之助氏も、同じようなことを述べている。
空気は、ないと数分ののちに生命がなくなるほどの重要なものであるのに、無限に近いほど、ふんだんにある。
空気と同様のものが、水である。
松下氏は、ある時労働者が水道の水を出しっぱなしにしながら、がぶがぶうまそうに飲むのを見た。
これこそが自分のやりたいことだと気付いたという。
電気がまだ出始めの頃、あらゆる人にこの電気を水のごとく自由に使えるようにしたら、さぞ人々の幸せにつながると考えたのである。
果たせるかな、今、世界は電化製品だけでなく、あらゆるモノが溢れ返り、すべてが極めて便利になっている。
しかし、それで人類が幸福になっているかというと、話は別である。
便利さが、逆に不満を生み出している。
「有り難い」はずのものが「あって当然」「ないと不満」という傲慢さや矛盾を生むことにつながっている。
モノだけではなく、非物質的なものや、人間関係にまで広がっている。
きれいな水が水道から出ることは、本来当然ではない。
平和はタダじゃないし、選挙権は自然に発生しない。
学校を例に出すと、誰しもが勉強できることは当然ではない。
また、学び方も重要である。
その問題は、どうやって解けるようになったのか。
試行錯誤したのちの正解にたどり着く感動があったのか、解き方を教えてもらって公式を覚えて解いたのか。
そうなると、テストで同じ100点を取るのでも、価値は違う。
どうやって手に入ったものなのか。
子どもがお小遣いを貯めてプレゼントしてくれたものの価値と同じ。
サンタクロースのプレゼントをもらえるのと、クリスマスだから何か買ってもらえるという子どもとの感覚の違い。
人生全般も同じ。
仕事が頂けることに有難みを感じ、喜びの中働くのか、単なる労役なのか。
通勤するのだって、無数の様々な人の支えがあってこそである。
同じ一秒でも、生き方で価値が変わる。
話が大きくなったが、要は適切な不足感や不便さは、必要だという考えである。
教育においては、何でも保護して与えてあげることによる不幸は計り知れない。
生きる力をつけたいなら、考えるべきは不足感。
今後の大きなテーマとして考えていきたい。
2018年1月13日土曜日
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