2019年7月20日土曜日

子どもの「好き」や「楽しい」の言葉を見つめ直す

ブログの更新をすっかり忘れていた。
再開し、夏休み中は毎日更新していくことにする。


「楽しい?」ときくと、ある子どもは必ず「楽しい」と答える。
「〇〇でいい?」ときくと「これが好き」と答える。

教師や親からすれば、とっても聞き分けがよい、「いい子」である。
特徴として、真面目だし素直だし努力家である。

問題は、こういった子どもはこれが本心なようで、本心でないことがある、という点である。

どういうことか。

子どもにも「忖度」の心はある。
いや、むしろ、子どもの方が強いと言ってもいい。
誰に対してというと、もちろん親に対してである。

子どもは、親に対して気を遣っていることが結構ある。
いつも一緒の母親に対しては「愛されたい」「嫌われたくない」という思い。
たまに一緒の父親に対しては畏敬の念を抱きながらも「ちょっと遠い存在、他人」という思い。

これが悪いという訳ではない。
人間なら、当然抱く感情だし、考え方である。
例えば大人同士でも誰かに料理をご馳走になって口に合わない時「まずい」と伝える方が社会的に相当まずい。
そういうことを前提にもっておくということである。

子どもは「自分の親はこう答えると喜ぶ」ということを知っている。
だからつい無意識に、親の喜ぶ答えを読んで口にしてしまう。
(高学年になると、発達の早い子どもにとっては予定調和の授業がつまらなくなるというのもここに関連する。
また、反抗期には敢えて逆の答えでくることもある。)

これを、本人も気付かずに無意識に行っていることがある。
だから「うちの子は〇〇が好きで」という親の言葉も、話半分できく必要がある。
親が望むように、子どもは行動するからである。
価値基準や行動規範の原型が、親だからである。

「親が喜ぶ」ということをモチベーションに勉強する子どもがいる。
それはそれでいいのかもしれないが、度が過ぎるのはまずい。
それでは大人になってからも、誰の人生を生きているのかわからなくなる。

ワガママすぎるのも困るが、自分を他人や社会の犠牲にしすぎるのも困る。
何事もバランスである。

自分の心を、自分自身が意外とわかっていないのである。
長じると、自分の好き嫌いすらよくわからなくなる。
他人の選択があたかも自分の選択であるかのようになっていく。

どんなに忙しくても「まだ大丈夫」といって倒れてしまう人がいるのもこのせいである。
「がんばれない人はダメな自分、愛されない自分」と長年にわたって潜在意識に刷り込んでいる。
心と体が悲鳴を上げているのに、自分にきちんと向き合ってあげていない。

子どもにも起きる現象で、何かを成功して成し遂げた後「これでやっとやらなくて済む」と安堵する。
周りの期待から「好きでやっている」と自分に暗示をかけているだけで、本人は早く辞めたいのである。

子どもが自分を出せるようにする。
そのためには、心と体の解放である。
そういった感情は、完成された出来合いのものの中ではなく、自然の中でこそ育つ。

自然の中のものは、自然そのものである。
自然はただそこに自然として存在する。
生物はただ生きているし、そこに存在価値の優劣はない。
「自分は何もしないでも、存在そのものが愛される」という自然の状態である。
子どもはもちろん、大人にこそ必要である。

夏休み中は、大人も子どもも、本当にリラックスして、各自が自分の好きなことをして過ごすようにしたい。

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