2019年7月21日日曜日

自治的学級づくりをどう実現するか

学級づくりを考える時には「先生自身が最も影響力のある教室環境である」という点をまずおさえる。
どんなにやり方を考えて工夫しても、担任自身が変わらないと、根本的には何も変わらない。
子どもが育つことと同じで、あくまで内側からの変化であり、外付けできないのである。

今の時代、いわゆる有名講師のセミナーが、全国のどこでも受けられる。
資料や書籍もネットで簡単に手に入る。
だから、あらゆる実践が、自分の教室ですぐに真似できる。

これ自体はいいことなのだが、問題がある。
実践が「パッチワーク」的になるのである。
(この表現は赤坂真二先生のセミナーで聞いたものである。)

異なる「観」に裏付けられた実践をつなぎ合わせることになる。
ごく極端に言うと、管理を目的とした手法と、主体性の育成を目的とした手法を同時に行う事態が起きる。

何が起きるか。
内部での混乱である。
特に素直な子どもたちは、担任に調子を合わせてくれる。

機械のように部品が合わないと全く動かないものと違い、人間には柔軟性がある。
自然界にない人工的な食材や栄養素でも、体に入ってきた以上無理矢理に消化しようとする。
それと似ていて、子どもに柔軟性があるが故に、教師自身の間違いに気付きにくいのである。

断言するが、どんなに優れた手法を使っても、根本的な学級づくりの変革にはつながらない。
表面的には変わるが、内面、内実は何も変わらない。
それは、上手な化粧のようなものである。
化粧で外見がどんなに美しくなっても、肌が美しくなった訳でも、人間的に素晴らしく変身した訳でもない。
(ただし、周囲の評価が上がるし、本人の自信になるという点で意味がある。ただし、表面的な評価と自信である。)

手法自体を変えても、本質は変わらない。
根本的には、担任の「観」に沿った学級づくりがなされる。
いわゆる「ヒドゥンカリキュラム」もその一つの現れである。
(例:「努力が大切」と口で言っておきながら、実際には結果ばかりを褒め称えれば、努力より結果が大切というメッセージになる。)

だから、学級づくりにおいては、観を磨き、本人が実行することが何よりも大切である。
学校の「研修」における「研究」の方ではなく、「修養」の方である。

表面的ににこにこしてもダメ。
表面的に褒めてもダメ
いい話をしてもダメ。
そんなテクニカルなことは子どもにも簡単に見抜かれる。
子どもは、教師の人間性を見ている。
(本当に騙してしまっていたら、それこそが大きな罪である。)

教師は、子どものために存在する。
子どもに存在価値のすべてを規定されている。
親が親たるゆえんは、子どもの存在があってこそ、ということと同じである。

だから、自治的な学級づくりや主体性のある子どもを育てたいと願うなら、担任からである。
担任自身が自治的であり、主体性があることが前提条件である。

自身が自治的とは、自分のすべきことを自分でする、ということである。
現状に甘んじることなく自ら問いをもち、新たな解決の手立てを考え実行する、ということである。
自分の行動による結果のすべてに責任がもてるということである。
子どもに主体性を求めるなら、自分が主体性をもって変わることである。

そして、自治的学級づくりにおいては、子どもへのリスペクトは絶対条件である。
学級の子どもは一緒に学級をつくる同志であり、それぞれがそれぞれの主役であり、仲間である。
目の前の子どもは今より必ず良くなると、心の底から信じ込めることである。
本当に悪い子ども、だめな子どもなんて存在しないという観をもつことである。

果たして、この点において、どの程度信じられているか。
多分、これは担任として充実した人生を送れるかの決定的な点である。
だめな子なんて、いる訳がない。
必ず良くなるから、教育に存在価値があるのである。

もしここの教育観について揺れや疑いがあるなら、次の本をおすすめする。

『ぼくたちに翼があったころ コルチャック先生と107人の子どもたち』
タミ・シェム=トヴ 作 / 樋口 範子 訳 / 岡本 よしろう 画 福音館書店
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=1644

孤児院の子どもたちと相対する真の教育者の姿を通して、感ずるものがあるはずである。

自治的学級づくりは、自分づくりから、ということで話を締めくくる。

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