突然だが、選択して欲しい。
指定と自由。
どちらが嬉しいか。
これは、自由と答える人が多いのではないだろうか。
イメージなので、何とも言えないが、自由の方が指定より束縛されていない感じがして、いいような気がしないでもない。
自由というのは、歴史の中でも獲得されるものであり、価値がある。
ところで、「スタジアム」や「ホール」の場合を考えてみる。
「指定席」と「自由席」。
どちらが嬉しいか。
これは、嬉しいかどうかは置いておいて、値段が高いのは「指定席」の方である。
値段に応じての場所の制限があるとはいえ、自分の席が確実に確保されている。
つまり、安心である。
「自由」というのは、一見いいようで、不便や不安も多い。
「選択の結果の責任を自分でもて」と言われているからである。
実は、何でも「指定」される方が楽である。
試しに、子どもに「席は完全に自由」と告げてみるとわかる。
なかなか選べない上に、トラブル発生必至である。
座席は、指定されるからこその安心というのがある。
だから今まで、自分の学級の座席決めは、「こちらで指定」か「くじ」がほとんどであった。
半分自由で半分くじという場合もあったが、完全に自由にするのは、なかなか難しい。
それも踏まえた上で、今年度は「自由席」を採用してみた。
自分で座る席を決めて、週1回で席を変えている。
「男女半々」だけが指定条件で、「なるべく違う人と組む」が努力義務である。
これを成立させるには、心身の「安全・安心」の確保が前提として必須である。
これがないと、まずうまくいかない。
子ども同士の侵害行為が予想される場合は、絶対に採用できない。
「どの組み合わせでもできる」という人間関係のベースが必須となる。
ある意味、学級の状態の試金石になる。
今、自分の学級は、教師の指導性を強く出す時期か、子どもの自由度を高める時期か。
この見極めこそが大切である。
どちらがいいという訳ではなく、状態を見極めて変えていく。
「自由度を高める」を志向していても、必要であれば指導性を強く出した方がいいこともある。
世の有名な実践家の追試をしてもうまくいかない、という場合は、この辺りの測定の誤りがある。
その実践家の学級の状態と、自分の学級の状態とが乖離しすぎているのである。
その状況に応じた良い手、というのがある。
逆に、指導性を強く出して「指定」を続けていれば、指導者から見て「安定」はする。
しかし、子どもの「動き」は生じない。
どこかで敢えてバランスを崩す必要が出る。
歩くという行為一つをとっても、安定から不安定へ崩すからこそできる。
赤ん坊や幼児を見れば一目瞭然である。
まず「立てる」という行為が安定するようになる。
その上で、次にその安定を崩して、「歩む」という行為に踏み出す。
「安定」から、危険を伴う「自由」に一歩を踏み出す訳である。
赤ん坊は、いつでも危険を顧みずに不安定への挑戦に踏み出す。
だからこそ親はハラハラするのだが、それが成長の契機でもある。
危険を全て取り除いて「完全に守られた安全・安心」の枠の中で育て続ければ、子どもの力は育たないということでもある。
まず、安定を目指す。
次に、別の場所へ動くために、安定を崩す。
この繰り返しこそが成長であり、「自由な学級」へのステップであると実感している今日この頃である。
2019年7月31日水曜日
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