2019年7月25日木曜日

宿題にならない工夫をする

拙著『「捨てる」仕事術』に関連した話。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
「働き方改革」に対する誤解と、「残業しなければいい」というものではないということについて。

宿題を出さない。
それだけきくと単に教師も子どもも楽なように思えるが、それはとんでもない勘違いである。

宿題を出そうが出すまいが、学校教育の使命は決まっている。
子どもに、生きていく上で必要な学力をつけることである。

つまり、宿題を出さないということは、授業時間内に学力をつけるということでもある。
これは、現実的にはなかなか難しいことがお分かりいただけると思う。

ご存知の通り、学級には様々な特性の子どもがいる。
それぞれ、得意があれば、不得意がある。

例えば縄跳びが得意な子どもは、体育の授業時間だけであらゆる技をマスターするかもしれない。
一方で、一回旋一跳躍の前跳びの習得に大変な時間のかかる子どももいる。
この場合、休み時間や家で練習してくることもある。
習得のためには、絶対的な「量」が必要だからである。

これが算数の場合も起きる。
同じ10問の問題を解くのに、1分で完了する子どもと30分かかっても終わらない子どもが混在するのが学級である。
漢字の習得でも社会科の調べ学習でも図工の作品の完成でも何でも、同様のことが起きる。

これらの差を埋めるのは、「一人の時間」である。
自分だけで使える自由な時間の割り当てである。
つまり、通常終わると思われる設定時間内で終わらないのであれば、個人的な宿題になる。
遊びたいのを我慢して努力する時間にあてる。
これは必然である。
これが嫌だと思うからこそ、効率よくやる工夫が生まれるのである。

宿題と残業(あるいは持ち帰り仕事)というのは、この点で同じである。
宿題という名前ではなく「やり残し」という名前にした方がわかりやすいかもしれない。
規定時間内に終わらなければ、余計な時間を使って終わらせるしかない。
アフターファイブを楽しみたければ、時間内に終わらせる工夫をする。
できなければ、残業か持ち帰りの選択肢しかない。
あるいは、事前に時間を割いて、早めに終わらせておくべきことだったのである。

実際、個人的な能力不足や工夫不足の分は、時間で補填するしかない。
この原則は大人でも子どもでも同じである。
質と量の関係である。
(勘違いされているかもしれないが、私が終始一貫ずっと反対し続けているのは「一律の宿題」であり、宿題そのものではない。)

これを社会人に当てはめてみる。
「働き方改革」を盾に、やるべきこともやらずに帰るのは無責任である。
常識的に考えて、あまりに業務量が多いならわかる。
しかし、それを時間内に終わらせる人がいて、自分が終わらないとする。
それならば、自分の方は余計に時間を割いて、何とか終わらせるべきである。

これは、小学生から身に付けるべき態度である。

子どもなら、自分が授業中に終えられなかった分や、理解できなかった分をどうするか。
これはたとえ宿題には出ていなくとも、休み時間あるいは家でもやるべきことである。

それを促し、励まし、チェックしてあげるのは、教師の仕事である。

逆に言うと、教師はクラスの全員ができなかったような分量、あるいは理解困難な内容のものを、全員の宿題にするのは間違いである。
高校生や大学生相手ならまだしも、相手が小学生なら、それは授業中に確保すべき時間であり、指導すべきことである。

何を言いたいかというと、宿題一つ出すにも、計画的に、社会で生きる力をつけるべきということである。

自分のやるべきことは、責任を持ってやりきる。
時間内の処理能力の差は、自助努力で埋める。
言い訳しない、人のせいにしない。
わからないことや無茶に対しては、はっきりと要求を告げる。

こういったことは、小学校の内でも学べることである。
「塾に行かせておけば学力は安心」という安易な考えは、この辺りの能力を落とす。
何もかもお膳立てされた環境の中では、工夫して考える力はつかない。
ピンチや変化に応じて逞しく生き抜く力は身に付かない。
(危険を顧みないなら、自然の中に放り込む方が学べる。)

与えられた課題をこなすことや、宿題を当たり前だと思っていると、残業が「習慣」になってしまう。
やるべき課題を自分で見つける方や、宿題をやらなくて済む方にこそ、頭を使うべきである。

働き方改革は、日常から。
残業体質の基本姿勢は、子ども時代から始まっていると考える次第である。

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