通知表の話の続き。
昨年度、「昭和館」という資料館の実物資料で、戦時中の小学一年生の通知表を見た。
80年ほど前の通知表である、
「今と何が同じで、何が違っていると考えられるか。
歴史的な背景も考慮して考えを述べなさい」
などという入試問題にも使えそうである。
ちょっと予想してから読み進めてもらいたい。
単にその方が、読んでて楽しいと思われるからである。
ただし、この通知表はほんの一例であり、全てがこの形式だった訳ではない。
それもわかった上で、気付いたことを羅列してみる。
1 教科と評定について
全教科の評定が甲乙丙の三段階でつけてある。
教科の記載の筆頭は「修身」、つまり今でいう道徳科である。
こちらもしっかりと評定されている。
国語の評定の記載は、その次である。
国語に関してのみ「読」「綴」「書」の三つの観点別評価である。
読むこと、作文、書の三つである。
「話す・聞く」は、ない。
そして理科や社会は一年生ではやらないので、斜線で消してある。
ここも同じである。
あとは算数や図工、音楽、体育などと続く。
(順番は忘れた。)
2 所見について
所見欄等、記述は一切ない。
当時の一学級あたりの子どもの数を考えると、納得である。
今は高学年だと
総合所見
特別活動の記録
総合的な学習の時間
外国語
道徳
の記述欄がある。
これを考えると、現在の通知表作成が負担にならない訳がない。
この記述を多くの保護者が「歓迎」「感動」してくれているのならば、労力も報われるが。
本当に「労多くして功少なし」な作業である。
3 出席日数等について
現在の通知表では、「出席」「欠席」「出席停止」がまとめて記載してあるのが通常と思われる。
当時は、教師の通知表と同じで、これの月毎の記載があった。
そして欄は
「出席」「病欠」「事故欠」「出席停止」である。
ここですごく引っかかった。
「事故欠」の記載。
80年前から、今も同じ表記である。
事故欠とは、交通事故等の欠席を指す訳ではない。
病気と通院以外の理由の、全ての「欠席」である。
(何を病気とみなすか、という判断の問題も含まれる。)
これは完全に予想だが、この当時は本当の「事故による欠席」が多かったと考えられる。
なんと言っても、戦時中である。
戦争中の非常事態に、事故はつきものである。
今は、どうか。
現代の事故欠の内訳は、ほぼ「家庭の都合」である。
つまり、自己の都合による欠席である。
この「事故欠」表記が現代において適切かというと、正直かなり紛らわしい。
「自己欠」の方が適切ではないかと思ってしまうぐらいである。
しかし、何十年もそのまま使われているのが現状である。
不易と流行というが、価値があるから不易なのである。
何となくとか当たり前とか慣例とかは、不易とは違う。
前例を踏襲しているだけ、付け加えているだけ、といった、変わるべきものは、まだまだありそうである。
2019年7月3日水曜日
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