言い間違い。
読み間違い。
人間なら、当然ある。
当然あるのだが、これを影響力のある人がやると、それが「正しい」ことになる。
言語の世界は、これが顕著に出る。
「着替える」
何と読むか。
これは「きかえる」が本来の読み方としては正しい。
教養ある年配の方だと「きかえる」と言うことが多い。
しかし、「きがえる」と読む人の方が圧倒的に多い。
なぜなら名詞の「着替え」の場合は「きがえ」が正しいからである。
しかし「着替える」の場合の元々の読み方は「きかえる」である。
そして、今は「きがえる」の方が主流である。
だから「きかえましょう」と言うと違和感が出る。
だから、学校教育であっても「きがえる」がよいことになっている。
なぜかというと、それが「一般的」だから「正しい」ということである。
多数の人がそう使い続けてきたから、「数は力」なので「正しく」なったといえる。
「スマホ」
何の略か。
言わずもがな「スマートフォン」の略である。
しかし「スマフォ」とは言わない。
あくまで「スマホ」である。
元の言葉云々は脇に置いて「言いやすいから」である。
二年生の新出漢字に「新」がある。
訓読みに「新た」(あらた)や「新しい」(あたらしい)がある。
この二つの読み方は、これを初めて読む二年生にとって「違和感」である。
「新しい」は「新た」(あらた)からして、「あらたしい」ではないのか。
これも、誤用が転じて正しくなった言葉の一つだという。
「あらたしい」が本来の読み方らしい。
しかし当然、テストでそう書いたら、「×」である。
本来正しいけれど、「×」である。
(参考文献『違和感のすすめ』松尾貴史著 毎日新聞出版)
世の中は、こういう仕組みである。
その時代の多数の賛成を得たものは、とりあえず「正しい」ことになる。
好きか嫌いかは自分が決める。
良いか悪いかは時代が決める。
正しいか正しくないかは歴史が決める。
(師の野口芳宏先生から直接学んだ言葉である。
福岡のとある方の言葉らしい。次のH.P.にも書いてある。
http://www3.plala.or.jp/yokosan/nogutironbun-03-04.htm)
「正しさ」というものも、危ういものである。
本当の「正しさ」なんて移ろうものである。
歴史の裁きを受ける中で変わるし、時の為政者によっても変わる。
ヒトラーの時代におけるドイツ国内の「正しさ」とは何だったのかと、考えるまでもなくわかる。
時代によっても変わる。
ある時代に正しかったものが、次の時代には正しくなくなることもある。
逆もある。
「天動説から地動説」も「アメリカ大陸発見」も全部そうである。
みんなが「馬鹿じゃないの」と言ってたことが、正しかったとわかると、急に掌を返すこともある。
やがて「そんなの常識」になる。
「正しさ」を考えすぎて執着(しゅうじゃく)すると、生きにくくなる。
周りと調和しなくなるからである。
しかしながら、「これは違うのではないか」と腹のどこかで違和感を持つことも、時には大切である。
偉いあの人の言っていることも、間違っているのではないか。
あるいは、自分の考えの方こそが間違っているのではないか。
そういう「批判的思考」(クリティカルシンキング)をもつことで、見えるものが変わる。
これからの時代を生きる子どもたちにも、何でも鵜のみにせずに、自分の頭でまず考える力を育てるようにしたい。
2019年7月27日土曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿