色々な場で実践発表をしていると、必ず言われる台詞がある。
「それは、附属小学校だからできる」
「うちでは難しそう」
これは、半分事実を含む。
一方で、諦めないで欲しいという思いもある。
事実の部分。
それは、「文脈」によるということ。
あらゆる実践というのは、文脈の中で成立する。
やれない文脈というのは当然存在する。
例えば、地域の環境との文脈。
8の字跳びに取り組みにしても、大会がない学校とある学校では、取り組み方は全く異なる。
もっと極端な例で言えば、日常的にスキーを体育学習で取り組む素晴らしさがわかっていても、沖縄ではやれない。
タブレットを用いた学習の素晴らしさを学んでも、自校のICT環境が整っていないのでは、思うようにできない。
そういう環境的な要因は無視できない。
また、子どもと教師の関係性の文脈もある。
「あらゆる勝負に勝つ」という信念を持った教師と、「協力が大切」という信念を持った教師とでは、実践が違う。
「受験で合格したい」という願いをもつ子どもと、「友だちの輪に入りたい」という願いをもつ子どもでは、学級に求める文脈が異なる。
同じ実践を試しても、効果が全く異なる。
あらゆる実践は、自然な文脈の流れの中でないと、正しく成立しない。
ただ、「○○だからできる」というもの。
「○○」には個人名、学校名、学年等、様々な条件が入る。
これは、疑った方がよい。
できないという理由は、無限に挙げられる。
その方が苦しくない。
自己否定にならないし、思考が停止できるからである。
ただ、これが長じると「あの子は無理」「自分は悪くない」「考えるだけ無駄」という思考に発展する。
それでも、そういう否定的な思考がよぎってしまった時には、自分自身に次の質問をする。
「自分の尊敬するあの人が、自分の代わりに教えても無理か」
そう考えると、大抵答えは「NO」である。
結局、多くの場合の「無理」の真実は、実は自分の力量不足である。
ちなみに「附属小だから」と言われるような実践に、意味や存在意義はないのかというと、これは、大いにある。
一つのモデルを示すという意義である。
「簡単に追試可能」というのは、一つの価値である。
一方で「実現が困難と思われる状態を示す」というのも意味がある。
「場合によってはここまでやれる」という一つのモデルである。
ファッションショーの意義と同じである。
実際に着るのが難しいような先進的なファッションは、一つの提案である。
実際にその恰好を全員がして欲しいという訳ではない。
(代わりに、誰でも手軽に簡単にという広く実用的な部分は、ユニクロのようなファストファッションのブランドが担保する。)
つまり、手軽と困難は、両方とも必要な存在なのである。
パラリンピックなどもそうだが、困難なものを実現している姿というのは、見た人に勇気を与える。
ただし、多くの人が「できそう」と思うかどうかとは全く別である。
例えば永らく陸上の世界では、「100m走で人間が10秒台を切るのは科学的に考えて絶対に無理」と言われてきた。
ところがある大会で9秒台が一人出た矢先から、世界中でどんどん9秒台が出だした。
高いレベルを実現している者が一人でも出ると、「無理」のリミッターが外れて、他の人の「できる」につながる。
教師であれば、例えば体育で学級の誰か一人が難しい技をできるようになると、続々と「できた!」という子どもが出るという現象。
これを見た人は結構多いはずである。
実際、昨年度の一年生で一人「はやぶさ」ができ出したら、真似して続々とできる子どもが出現し、見せたこともない「後ろはやぶさ」などの技も出だした。
自分のやっている実践は、他の場でもできる程度のことだと思っている。
すごい、できないと思ってもらえるなら、それもそれで価値があることなのかもしれない。
逆に「案外やってることは普通」「自分にもやれそう」と思ってもらえたら、それはそれでいいことだと思う次第である。
2019年7月29日月曜日
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