2019年7月24日水曜日

多数決のダークサイド

前号の「変さ値」の話と関連して、多数決の危うさ、ダークサイドについて。

結論から言うと、多数決は危険である。
(感情的に言うと、嫌いである。)

しかしながら、多数決にはものすごい力がある。
数が多いというのは、力である。
しかも、数が多いほど責任分散ができるので、多数派に乗るのは、個人的に見ると無責任でかつ最も安全な選択である。

世の中の多くのことは、多数決で決まる。
特に大事なことの多くが、多数決で決まる。
先の参院選があったように、選挙はその最も顕著な例である。
国会も裁判所も同じである。
「数は正義」である。
多数に賛成してもらえるような説得材料を揃られるかが勝負になる。

人気がある、というのも、多数決と同様のことである。
今流行りの人気の〇〇、というのは、多数の支持を得て需要のあるものである。
これだけでも価値がある。
いや、価値を値段、価格で計るならば、相当な高い価値がある。

ただ、高い価値があるが、それが「本質的に良い」とは限らない。

人気の有名人の不正な行為。
あるいは、ネット上で出回る残忍な動画。
いたずらや社会的に悪い行為を撮影し、ネット上に公開した動画。
ものすごいレビューとコメントがつくらしい。
そうらしいが、それが本当に良いもの、見るべきものかというと、明らかに「ノー」である。

なぜそういうことが起きるかというと、「多数派」のものに対しては、自分の頭をきちんと使わなくなるからである。
「何か面白そう」「周りがいい(面白い)と言っている」辺りの適当な判断基準になりがちである。
先に述べたように、責任分散の心理的効果がそれを後押しする。

しかしながら繰り返すように、それでも多数決は、決定の大きな力である。
つまりは一方で「正しいかもしれない少数」を確実に葬り去る最強の手段でもある。

「普通」から外れているものは、少数派、いわゆるマイノリティである。
マイノリティにとっては、多数決ほど恐ろしいことはない。
正当性とか真実・真理とか一切関係なく、太刀打ち自体ができない。
数という名の正義の暴力の前にひれ伏すだけである。
その暴力の前に、力(数)なき弱い者(=少数派)は淘汰される。

これは、世の中とか大きな規模だけでなく、学級の授業という小さな単位でも起こる。
よくあるのが、学級会の提案の決定。
多数決で決めることが多いかもしれない。
しかしそれは、少数派の子どもの意見を却下している可能性、あるいはそもそも出せなくしている可能性がある。
仕方のない時もあるかもしれないが、多数決は「どうしてもやむを得ない場合の最低の下手の手段」として自覚する必要がある。

多数決自体は、決して民主主義ではないし、上等な決め方でもない。
民主主義の本質とは、多数を優先することではなく、少数を捨て置かないことだからである。

無責任な単なる多数決は、真実・真理を求める方向とは真逆である。
こういった考え方を、学級の子どもとも共有しておく必要がある。
(私は、よく天動説と地動説の話を例に、これを教える。一年生相手でもする。
特に真理を扱う学問に、多数決は馴染まない。)

授業、あるいは学級会をやるとよくわかるが、子どもの本当の「価値ある良い意見」というのは、大抵大反対されたり、黙殺されたりする。
なぜならば大多数の「常識」から外れた「変」な意見であり、ほとんどの子どもが発言の真の価値に気付けないからである。

これは、ガリレオ・ガリレイが投獄されたのと同じである。
地球が回っているかどうかという真実と、大衆の多数決は一切関係がない。

大衆的特徴としては、自分の頭を使わずに「正義」を信じることが挙げられる。
キリストの言う通り「正義の石ころ」をみんなで投げつけようとするのが大衆である。

自分だけは、傷付きたくないのである。
不条理にいじめられている人がいるとわかっても、自分がいじめられるのは怖いから言い出せない、あるいは一緒に石を投げてしまう。

だから、「多数決を取ります」といって適当にきけば、必ず起こる残念な現象がある。
周りを見てからばらばらと手を挙げる「勇気なき残念な輩」が「多数」生まれてしまうのである。
責任をとりたくないし、少数派になりたくないのである。

それを防ぐには
「0.2秒以内に手を挙げる。それ以外は無効。」
というようなある程度厳しいルールの設定や
「一人でも手を挙げられる人は勇気がある」
というような少数であることへの価値づけを普段からしておく必要がある。
(しかしながら、ルールの設定自体は、本質ではない。)

道徳科の場合が特にわかりやすい。
模範解答的な意見には、誰しも反対しにくい。
一方で、「変」な意見には反対しやすい。
しかしなぜそんな考えをしたのか、深堀りすれば「なるほど」と唸る可能性もある。

しかし「大衆化」した頭では、それが想像できない。
周りに便乗して、ギャーギャー騒いで言いたい放題言う。
(そもそも、「大勢で騒ぐ」という集団行為自体が大衆的である。)

指導している教師が「大衆化」していれば、尚更である。
「お上の言葉」を天の声であるかのように忠実に従い続ける。
「例年通り」を無思考で踏襲する。
そうすれば、誰からも批判されず、無責任で安全である。
すると、自分の頭で考える力や想像力が鈍ってきて、感性が閉じ、やがて何も感じなくなる。

批判的思考とは、他人の意見にひねくれてみることではない。
自分の考えと照らし合わせ、自身の行為の是非を問い続ける思考法である。
つまり、「偉い人」や「みんな」が言ったからといって、鵜吞みにせずに、きちんと自分でよく噛んで味わうことである。

何事にせよ、言動の裏、真理をよくよく考える必要がある。
(拙著『切り返しの技術』https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
や『とっさのうまい対応』https://www.amazon.co.jp/dp/4181406237
にも繰り返し書いた通りである。)

多数決のダークサイド、危うさを自覚する。
当面、危険とわかっている内は、とりあえず安全である。

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