指導と評価の一体化の大切さは、既に何度か書いている。
「指導をした」なら「評価をした」とは、必ずしもならない。
一方、「評価をした」なら、必ず「指導をした」ということになる。
歌の指導の場面を例に説明する。
A「口を開けて歌いましょう」と言うことは指導であるが、評価にはならない。
B「○○さんの口の開け方は素晴らしい」と言うことは、評価であると同時に指導である。
この場合、Bの、評価による指導の方が効果が高いことが多い。
「多い」というのは、前提として、「○○さん」の口の開け方が、周りの子どもにとっても、
本当に素晴らしいと思えることが条件になるからである。
そうでもないのにそこを評価すると、マイナス効果の指導にもなることもある。
「あんな程度のものでいいのか」「自分の方ができている」と思われないこと。
場合によっては「ひいきだ」などと思われる可能性もある。
そこまで考えて、真剣に評価する必要がある。
(なお、全体の前でなく1対1で評価する場合は、この限りではない。)
つまり、○か×かの基準を示すことになる。
「○○さん」と同レベル以上ならば○で、それ以下なら×ということである。
どのレベルに設定するかも、勝負の分かれ目である。
高すぎず、決して低すぎず、多くの子どもにとって現在到達していないが、努力したらいけそうなレベルが望ましい。
無論、個人差へは配慮するが、目指すレベルが明確になる。
目標がはっきりすると、やる気が出る。
どうしたらいいのか分からない状態が、やる気の低下を引き起こす。
基準を示したら、「どうしたらそうなるか」の指導を加える。
「口の形は、鳥のくちばしのように、縦に開くことを意識しましょう」と言えば、そちらの方向に動く。
なるべくイメージ化できる表現がよい。
つまり「指導」→「評価」→「指導」→「評価」→・・・の繰り返しである。
指導だけで評価なしだと、これで良かったのかどうかがよくわからない。
評価だけで指導なしだと、どうすればいいのかよくわからないこともある。
「こともある」というのは、あるレベルになると、評価の繰り返しだけでも上達するからである。
上達するにつれて、自己修正ができるようになる。
どうすればより良くなるのか、自分で考えられるようになる。
つまり、指導者の手を離れていく。
「守・破・離」である。
ただ、どの場面であっても、最初は指導を多めに、だんだん評価だけになっていくのが原則である。
新年度が始まる。
手を離れた子どもたちも、次のステージへ行く。
自己修正(自律)ができる状態に育って、巣立って(自立)いってくれていたら嬉しい。
2014年4月4日金曜日
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