指導中、子どもに次のような自己評価を促す指示を出すことがある。
「○か×か」
「AかBかCか」
「何点か」
子ども自身に判断をさせる場面である。
この時、どれを用いるのが良いか。
そんなことを言われても困るだろう。
なぜなら、どれが良いのかは、状況とねらいによるからである。
「○か×か」の場合、判別できる必要がある。
この尋ね方は、明確な基準が必要となる。
その基準から見て、良いか悪いかの二択である。
たとえば「あいさつができる」に対して、この○×評価は難しい。
どの程度で○かがわからないからである。
一方、「相手の目を見てあいさつができる」となれば、話は変わる。
意識さえしていれば、○か×か判別できる。
ただこれも、「いつも」なのか「ある一場面について」なのかで変わる。
そこで、次の「AかBかCか」がある。
Aはいつもできる、Bは時々、Cはいつもできない、という3段階評価になる。
場合によっては4段階や5段階のこともある。
(ちなみに変容を追う調査の場合、3段階より4段階が原則。
3段階だと曖昧な「B」に集まりやすく、変容が見えにくいからである。
「3点満点」ときくと、0点が入るので実は4段階評価になる。)
更にレベルを上げると「何点か」である。
仮に100点満点できくとなると、これはかなり点数がバラバラになる。
何点かの判断が難しいのが短所で、「98点」など、わずかな進歩でも表現できるのが長所である。
どう評価する(させる)かで、思考が変わってくる。
授業中の発問に対する判断などは「○か×か」が原則。
「全員」を巻き込むためには、曖昧さを排除していくのが原則である。
また、そうきこうとすることによって、発問自体が磨かれる。
例えば、国語の「ごんぎつね」で、「ごんをどう思いますか」だと、解が拡散する。
(変なきき方だが、「ごんは何点ですか」に近い。0点から100点まである。)
教師の側が指導したいことと別の方向に行く可能性もある。
それはそれで楽しみもあるが、指導にはねらいがあり、その原則からは外れる。
物語の冒頭の場面を取り上げて「ごんを良い狐だと思う人は○、悪い狐だと思う人は×を書きなさい」だと、限定される。
この場合、何をもって「良い・悪い」を判断するかにポイントが絞られる。
そこに絞った話し合いが活性化される。
評価や判断の方法一つとっても、ねらいが全てである。
2014年4月6日日曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿