学習会における学びのシェア。
「学校のルールと当たり前」について議論した。
「当たり前」
「ルール」
「マナー」
の違いを定義したが、ここに
「道徳」
との違いも検討せねばならなくなった。
自分の提案の中で
「国のルールの代表的なものが憲法」
という話を例に出したが、ここに参加者から
「憲法には実質的意味としての憲法と成文の法典としての両方の意味がある」
という意見が出た。
ここでも更に「憲法はルールか」という疑問が浮かぶことになった。
よくよく考えれば、憲法は国の法としての理念を表している。
例えば刑法に反すれば罰せられるが、憲法はそれとは違う。
「基本的人権の尊重」を掲げているが、そこに反するからといって即処罰になる訳ではない。
例えば19条は「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない」とある。
ただこの自由もどこまでが自由か、という議論の余地が残る。
例えば良心に従って相手を安楽死させていいものか、というのは大きな問題である。
このように、掘り下げていくと、果てしなく深いテーマにはまり込んでしまう。
そこで立ち返って「学校の当たり前とルール」という身近なところに絞ることにした。
私は「学校には厳密な意味でのルールはない」という提案をした。
なぜならば、罰則規定がないからである。
ルールというのは、基本的に反した場合には罰則(ペナルティ)がつく。
スポーツの試合然り、刑法や交通法などの各種法律や条例然り。
学校の「ルール」にはそれら罰則がつかない。
即ち、マナーや慣習に属すものと考えることができる。
メルマガにも書いたことがあるが、私は学級の子どもに
「敗北宣言」
をする。
↓参考「教師の寺子屋」2021.2.27記事:子どもと安易に「約束」をしない
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2021/02/blog-post_27.html
無下に破られても、こちらは臍(ほぞ)を噛むことしかできないのである。
だから、ルールとは名ばかりの子どもへの「お願い」になる。
守ってくれていること自体が有難いことである。
子どもが自分の話を黙って聞いてくれていることも、有難いことである。
それぐらい、学校には実際に正式なルールが存在しない。
そこで「警察などの外部機関を入れることも検討してはどうか」という意見も当然出る。
これも一理ある。
社会に出てから法的に裁かれるよりは、義務教育の内に法を意識することも大切である。
いじめはれっきとした法律違反の犯罪であるということを強く意識するかもしれない。
窃盗も器物損壊も犯罪であるが、学校は「教育の場」ということで「だめでしょ」で法的処分なしである。
やれば警察の捜査が入るとなれば、簡単には起きなくなるかもしれない。
しかしながら、やはり教育の場においては、救いたいというのが本音である。
学校としては、なるべく警察のお世話にはなりたくない。
この意識が行き過ぎて学校内の「隠蔽」が起きているとしたら、これはやはり問題である。
当たり前もマナーも深堀りしていくと、果てしない。
それこそ「当たり前」に思っていたことを見つめ直してみると、全く当たり前ではないことがよくわかる。
当たり前を改めて考えることは、自分自身の思考パターンを見つめ直すのに有用である。
0 件のコメント:
コメントを投稿