前号と関連して、ルールと「したい」について。
個人の人生においては、社会のルールではなく「したい」が優先されるべきである。
社会のルールに合わせたに自分自身が倒れたら元も子もない。
しかし、社会においては個人の人生は優先されないというのが現実である。
それぞれの社会的な場にはルールがあるので、個人の「したい」は優先されないというのが現実である。
例えば、会社や学校については「出社時刻」や「勤務時間」などへの規定がある。
規定で定められたものを守る義務がある。
その場のルールを変えない限り、個人の「こうしたい」は優先されない。
「したい」だと優先されない一方で、個人的にでも「すべき」「しなければならない」ことだと優先してもらえる。
病気のための対処などはそうである。
トイレに行きたいなどという生理的現象もそうである。
交通機関の乱れによる遅刻も、認めてもらえることが多い。
こういったことは「仕方ない」こととみなしてもらいやすい。
(一部の企業では、これらの当然の人権すらも認められないということで、社会問題にもなっている。)
こういった「仕方ない状況」でない限り、個人的な「したい」は、社会の「すべき」に優先されない。
そうなれば、自分で「したい」が実現できる状況を作るしかない。
自分の「したい」が優先される場にいくことである。
あるいは、その場を作り出すことである。
「したい」が社会の「してほしい」「すべき」と合致するのが最高である。
好きなことが仕事になれば最高である。
即ち、自分から「したい」が実現できる状況を作り出す必要がある。
学校では、何ができるか。
子どもの「したい」が出せる場や時間を作ることである。
係活動などはこれにあたる。
学級会も、ルールを決めたり問題を解決したりするだけでなく、「したい」を出し合う場として使える。
子どもに、場のルールとそれを守ることを教えるのは大切である。
一方で、ルールにただ従うだけでは無思考であり、自分の「したい」を出す必要があることも教える。
今の学校は、ルールや社会的な「すべき」でがんじがらめである。
そうであるからこそ、「したい」を実現する場を意図的に設けていく必要がある。
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