2021年12月2日木曜日

道徳教育では多様な視点を手に入れる

 道徳の授業をすると、様々な反応・意見が出る。

これをどう扱うかが授業の中心になる。


道徳の教材には


1 望ましくない現状や困った事件がある

2 何か転機が訪れる

3 望ましい状態になる


という流れのものが多い。


基本的には3の「望ましい状態」というのが道徳的価値である。

そして、子どもたちはここについての価値は、教えないでも重々知っている。


例えば

「いじめはいけない」

「盗んではいけない」

「人には親切にしよう」

「感謝をしよう」

「自然を大切にしよう」

・・・

全部知っている。


だから、これを考えさせて教えること自体にはほとんど意味がない。

「だから親切にしましょうね」と言われても、実際にはできないというのが現実である。


この「できない現実」「望ましくない現状」を正視するところからの議論が必要である。

見えている現実とは、現象である。

現象をどんなにあれこれ操作しようとしても、根本を見ないと変わらない。


例えば「いじわるをする」という主人公が出てきた場合

「この主人公の性格が悪いから直すべき」と言ったら終わりである。


そうではない。

考えるべきは「いじわるをする」という現象の根本にある、人間の性(さが)である。

人間がなぜそのような行動をとってしまうのか。

どのような本能がそうさせるのかというところまで突き詰めて議論する必要がある。

突き詰めていけば、安全・安心の欲求や承認欲求などが十分に満たされていないことに起因する。


小学生でもわかる子どもにはわかる。

大人でもわからない人にはわからない。

それは、実際の経験の有無に左右されるからである。


例えば「盗みはいけない」といったことは、誰でも頭では知っている。

そして「貧しくてつい盗みをしてしまう」という行動については、理由も何となく想像がつく。

「アラジン」の主人公などは万人に理解されやすい。


しかし問題は、諸々の事情や美談によって「盗んだ」という事実の重さが霧散されてしまう点である。

ここは十分に議論して検討する余地がある。

「自分が死にそうなら盗んでもよいのか」

「悪い相手、豊かな相手からなら良いのか」

というのは、難しいテーマである。

法に背く行為は社会的には認められず、「ねずみ小僧」はたとえ義賊であっても、最終的には捕まって公開処刑にされている。


アラジンが理解されやすい一方で「十分豊かなのに万引きをしてしまう心理」は、わかる人にしかわからない。

「豊かなのに人から盗むなんてとんでもない」で終わってしまう。

注目すべき点は、物質的豊かさと心の豊かさが必ずしも比例していないという点である。

豊かなのに盗むという人の心理を理解するのは、なかなか難しい。

一見「不合理」だからである。


自傷行為なども不合理である。

自分を守るために自分を傷つけるという行為は、非論理的であり、心理的平和の中で生きている人には理解しがたい。

一方で、自身も近い思いをしている人にとっては、この行動の理由も共感できる。


人間は時に不合理で非論理的な行動をとるということへの人間的理解が、道徳教育の中に必要である。

そして一見不合理に見える行動の中に合理性があるということも知る必要がある。


「考え、議論する道徳」の真価は、様々な立場の視点を共有するところにある。

同質の人間しかいない場では、どんなに議論したところで広がりようも深まりようもない。

人種も性別も信条も違う人間が集まれば、自ずから様々な視点が手に入る。

固定化された当たり前や常識によって閉じた世界では、議論が堂々巡りするだけである。


一方で、集団において全ての個々の信条を完全に尊重していたのでは、何もできない。

集団が進むには、一定のルールが必要である。

右側通行と左側通行の常識を両方尊重していては、道路を自動車で走ることは不可能である。

また成文化されたルールでなくとも「当たり前」という形で定着しているからこそ成り立っている面もある。


集団におけるルールや当たり前と、道徳的価値や行動については、ある程度切り離して考える必要がある。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング