2021年12月15日水曜日

ルールやマナー、礼儀の存在意義を見直す

先日の学習会で話題になったことのシェア。

ルールについての話である。


社会において個人の「したい」を最優先すると、滅茶苦茶になる。

学校も同様である。


では、社会ではどういう場合の「したい」が実現されているか。

周りの人の迷惑にならない場合は、実現できる。

もっといいのは、周りの人のためにもなる「したい」で、これは歓迎される。


周りの人の迷惑になる「したい」は、制限がかかる。

それが、ルールである。

学校のルールも原則はそこである。


実際、社会においての役割では「したくはないけれど、するべきだからする」ということの方が圧倒的に多い。

これをいたく否定する動きもあるが、これ自体は必要である。


危険な仕事、汚れる仕事、きつい思いをする仕事などは、誰もなかなか進んではやりたがらない。

しかしながら、そのような仕事をする人がいてくれるからこそ、人々が快適に暮らせている。


自分のやりたいことだけを最優先して生きる。

とても響きがいいし、素晴らしいことだと思う。

しかし実際は、その人の生活は、周りの人の「縁の下の支え」があってこそである。

やりたいことだけをやっている人だけで社会が回る訳ではない。


学校はどこにスタンスを置くのか。

周りのことなど考えずに、自分のことだけを最優先する人間の育成でいいのか。

義務教育段階で求められているところは、そこではない。

人間同士に限らず、地球規模の支え合いを考えようというのがユニバーサルスタンダードである。


もし社会において全ての人の「したい」が最優先されるなら、学校自体が成り立たない。

その理論でいけば、教師の側も嫌な態度の相手を全て拒否していいということになる。

嫌なことでも、逃げずに向き合って真摯にやるのが現実の仕事である。


公のルールは、その負担を軽減してくれる。

言わずとも、お互いの節度を守らせてくれる有用な道具である。


ルールやマナー、礼儀の存在意義を見直す。

そんな当たり前のことこそ、今見直されるべきではないかというのが一つの結論である。

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