先日の学習会で話題になったことのシェア。
ルールについての話である。
社会において個人の「したい」を最優先すると、滅茶苦茶になる。
学校も同様である。
では、社会ではどういう場合の「したい」が実現されているか。
周りの人の迷惑にならない場合は、実現できる。
もっといいのは、周りの人のためにもなる「したい」で、これは歓迎される。
周りの人の迷惑になる「したい」は、制限がかかる。
それが、ルールである。
学校のルールも原則はそこである。
実際、社会においての役割では「したくはないけれど、するべきだからする」ということの方が圧倒的に多い。
これをいたく否定する動きもあるが、これ自体は必要である。
危険な仕事、汚れる仕事、きつい思いをする仕事などは、誰もなかなか進んではやりたがらない。
しかしながら、そのような仕事をする人がいてくれるからこそ、人々が快適に暮らせている。
自分のやりたいことだけを最優先して生きる。
とても響きがいいし、素晴らしいことだと思う。
しかし実際は、その人の生活は、周りの人の「縁の下の支え」があってこそである。
やりたいことだけをやっている人だけで社会が回る訳ではない。
学校はどこにスタンスを置くのか。
周りのことなど考えずに、自分のことだけを最優先する人間の育成でいいのか。
義務教育段階で求められているところは、そこではない。
人間同士に限らず、地球規模の支え合いを考えようというのがユニバーサルスタンダードである。
もし社会において全ての人の「したい」が最優先されるなら、学校自体が成り立たない。
その理論でいけば、教師の側も嫌な態度の相手を全て拒否していいということになる。
嫌なことでも、逃げずに向き合って真摯にやるのが現実の仕事である。
公のルールは、その負担を軽減してくれる。
言わずとも、お互いの節度を守らせてくれる有用な道具である。
ルールやマナー、礼儀の存在意義を見直す。
そんな当たり前のことこそ、今見直されるべきではないかというのが一つの結論である。
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