10月に行った「学校教育のリアルな本音を語る会」での学びのシェアの続き。
11月3日は文化の日だった。
昨年もこれについてふれたが、日本国憲法公布の日である。
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2020/11/blog-post.html
憲法はルールそのものというより、ルールを作るための拠り所であり、基本理念や原理である。
大まかな方針を示しており、日本国憲法は「民主主義」が前提にある。
だから、あらゆることに対し、民主的であることが大前提に議論される。
民主的国家を守るための法的な懲戒や罰則は認められる。
民主的国家で個人の尊厳を傷つける行為は当然容認されないし、パワハラもセクハラも許されない。
その一方で、行き過ぎた個人主義が問題にもなる。
「ミーイズム(自己中心主義)」である。
学校現場が悩んでいるのは、このミーイズムの人たちの多岐にわたるあらゆる主張の数々である。
大人と子ども、家庭と学校と職場、人と場所を問わず、社会のあらゆるところに、ミーイズムは存在する。
相手が自分の都合に合わせないことに対し、怒り、わめき、糾弾する。
「他人が自分のために存在している」という前提が正義にあるため、自らの狂気を疑うこともない。
学校とは、個人の欲求を恣に充足するための場なのか。
そんなはずはない。
学校とは、学びの場である。
義務教育段階の学校は、社会を学ぶための入り口である。
最も学ぶべきは「社会は私に合わせて動いてくれない」という点である。
「私が社会に合わせて動く」ということを否が応でも学ぶ。
社会というものは大きすぎて、多少の配慮はしてくれるものの、私だけに合わせるほどの小回りは利かないのである。
分かりやすいのは、公共交通機関である。
定刻になったら当然出発する。
私が勝手に乗り遅れて置いていかれたことにクレームをつけても仕方がない。
また逆に交通機関側の都合で、自然災害や不慮の事故で動かなくなることがあるが、私のために動けと騒いでも無理なことである。
スポーツでたとえるなら、トス、あるいはセンタリングに合わせて動いていくのは自分である。
自分の立っているところに思うとおりにボールをくれないことに文句を言っても仕方ない。
せっかくのナイスセンタリングであっても、そこに自ら動く必要がある。
どんなにいいセンタリングをあげても、ミーイズムの選手は文句しか言わない。
当然、仲間からも嫌われ、避けられるようになる。
ミーイズムの人たちは、端的に言って社会そのものが嫌いである。
公の正しさの定義と自分の中の正しさの定義が正反対で違うから、摩擦が生じる。
その流れで学校を「個性尊重」の場、さらには「私尊重」の場だと勘違いしている。
尊重してくれない相手を嫌い、嫌う周囲から当然嫌われてしまうから、孤立する。
ある意味で、最も苦しんでいる、民主主義の社会が助けるべき存在でもある。
ミーイズムが子どもであれば、学校はこれを放置せず助ける義務を負う。
大変で辛いが、それが学校というところでもある。
個性の使い方を、逆にする必要がある。
学校とは、その潰しても潰しても潰れない強烈な個性を、どうやって社会に生かすかを自ら考えるようにする場である。
学校に行けば、他人と自分との違いがわかる。
自分の凹凸がわかる。
自分にできないことを支えてもらう感謝と、自分ができることを提供する喜びも学べる。
次の言葉がある。
「個性も私物化すると短所になる」
(『鍵山秀三郎 日めくり 良樹細根』PHP研究所)
https://www.php.co.jp/goods/detail.php?code=83502
個性は、人の役に立てる方向に生かそうとすることで、初めて長所となる。
学校という場で、「私」を張れば、周囲への害悪になる。
みんなが自分の要望を通せない状況で「ちょうどいい落としどころ」を学ぶ場なのである。
わがまましたければ、自分の部屋や家庭で思う存分したらいいのである。
誰にも文句を言われない。
(そもそも家庭内で満たされないからこそ、外で暴れるという面は無視できない。)
自分の部屋や家庭内などの私でやることを、公の学校や社会に持ち込まないことである。
ルールとは、場にある。
絶対的に正しいことが存在するのではなく、その場に応じた正しいことが存在する。
ミーイズムとルール。
学校現場の根本的な問題を解決するには、ミーイズムに対しきちんと「それはルール違反ですよ」と伝えることからである。
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