2021年1月2日土曜日

続・やる気いらない説 目的の手段化がカギ

 2か月前に発行した「やる気いらない説」の続き。


「まぐまぐニュース」だと「子供に勉強をさせるのに」という冠がついていたが、実際そのようなことは述べていない。

ネット上のタイトルは、見てもらうのが大切なため、キャッチーに変更されてしまうのは常である。


そもそも私は「子供に勉強させる」という言葉自体に否定的な立場である。

勉強は、させられるものではなく、するものであるというのが長らくの主張である。

勉強嫌いの子どもが多いのは、多くが大人に「させられる」からである。


元々、子どもに勉強のやる気を起こさせようというための記事ではない。

やる気の出ない我々大人が、どのようにして我々自身を望ましい行動に導くべきかという話である。

その結論が「やる気はいらないから無思考で始める」というものである。


しかし、この理論の適用において、欠落している点を見つけた。

何かというと、やる以前の「動機づけ」である。

目的意識と言い換えてもいい。

ここが抜けていると、そもそも動けない。


勉強を例にする。

(くどいようだが、自分自身の勉強という話である。

誰かに「させる」という話ではない。)


英語の勉強をしようとする。

やると決めたら始められるのだが、問題はそれ以前の動機、目的である。

英語の勉強をして、どうなりたいのか。

動機の例を挙げてみる。


A 英語でコミュニケーションをとれたら便利だと思うから。

B 英語が出来たら便利でかっこいい気がするから。

C いつか海外に出て働きたいから。

D 現在の仕事の上で、英語を話す必然性が多くあるから。


切実感が肝である。


AとBは、動機が弱すぎる。

現在がよほど暇でないと、続かない。

苦労の末に身に付けたその先が見えないからである。


Cはどうか。

「いつか」が圧倒的に弱い。

「2年後に」とか限定性があって、かつ何かあてがある場合でないと、恐らく多くの場合、続かない。


Dはどうか。

これはかなり切実感がある。

「仕事にならない」あるいは「できないと職を失うことになる」というレベルになれば、かなりやる目的が強い。

やらざるを得ないから、多分やれる。


〆切があるなしということもやる気に直結する。

どんなにやる気がなくても、明日〆切のことなら、直前になれば大抵の人はやる。

ただこれは「続ける」という観点からすると、全く使えない手口である。


つまりは目的意識の強さ、必然性が肝である。


以前に例に挙げたエクササイズの場合も同様。

ただ「身体が引き締まったら素敵」ぐらいの意識では、到底甘い物の誘惑には勝てないし、毎日身体を動かす気にもなれない。

「痩せたい」にしても、痩せたその先に切実な目的がないと難しい。


ボクサーが無理にでも体重を減らせるのは、体重を落とさないと試合自体に出られないからである。

目標体重まで落とせなければ、これまでの猛練習自体が全てふいになる。

言うなれば、減量が「死活問題」としてあるから、必ず続けて実行できる。

この場合、減量(=痩せたい)があくまで「手段」であり、目的は試合に出ることである。


「手段の目的化」というのは、しばしばよくないことの言い回しとして使われる。

この逆の発想で、「目的の手段化」をすればよい。

目的にしていたものを、その先にある目的のための手段として「ランクダウン」させてしまう手法である。


先の例でいうとボクサーは「試合出場」が目的であり「減量」は手段である。

「減量」自体を目的にしても、辛いだけである。

もっというなら、「試合出場」のずっと先にある「チャンピオンになる」という大きな栄光を目的にしていれば、試合出場は手段でしかない。


ところで、先にも挙げたが教育メルマガならではの関心事の「子どもの勉強」である。

(ここにニーズがあることは、無視しない。「させる」発想には否定的だが。)

勉強をしたがらない子どもたちは、勉強をなぜしたがらないのか。


「勉強」自体を目的化されているからである。

「何分机の前に座っている」とか「ドリルの何ページまでを埋める」を目的としていて、モチベーションが上がる訳がない。

先の例でいうと、「とにかく減量」である。

続く訳がない。


ここで浅はかな発想の大人は「有名進学校に行って一流企業就職」みたいな目的を立てればいいと考える。

それを、子ども自身が心の底から望んでいるなら完璧である。

しかしながら、多くの場合、それはあくまで親の側の願望(というより野望)である。

自分の願望を他者に実現させようというのは、あまり感心できたことではない。


そんな親の動機でも、勉強を頑張れる子どもは結構多い。

なぜか。

「親の期待に応える」ことが目的化しているからである。


それはそれで意味があるかもしれないが、これが方向を間違えると怖い。

うまくいくこともあるだろうが、一方でやがてそれが恨みに転じることもある。


話を戻すと、子どもの側が、勉強することを自分の目的に対する手段化していればいいのである。


ある子は「自分を馬鹿にする周りを見返してやる」という目的で、勉強をする。これは、続くし成果が出る。

ある子は「自分の夢を実現させたい」という目的で、勉強をする。これも、もちろん続くし成果が出る。

ある子は「憧れの大好きな〇〇さんと同じ学校に入りたい」という目的で勉強をする。これでも、もちろんがんばれる。

(合格したのに結果的に「〇〇さん」の側が違う学校に行ってしまうというのは世の常である。)


中には「勉強自体が楽しい」という、勉強自体が目的化して続く子どもも、一定数いる。

ただこれは、言うなれば本人が本質的に研究家気質で学者肌であり、望んでなれるものではない。


要は、勉強自体にやる気が出るようにする方法、というのを採用しようとするとかえって失敗する。

自分自身が、勉強の先にあるものをもてるかどうかにかかっている。

岩下修氏の有名な言葉「AさせたいならBと言え」の通りである。


学校の教師が、子どもに勉強を教えるという際にもこれは適用できる。

うまく教えてよくわからせることだけが仕事ではない。

勉強のその先にある、何かを見せることができるかどうかの方が、よほど大事な仕事である。

逆に言えば、その子どもにとっての「何か」が学校の勉強の先にないのであれば、対応自体を考える必要がある。

教育の目的の果てしない最終地点はあくまで「人格の完成」であり、それはつまり本人の「幸せ」に資することだからである。


続・やる気いらない説の真髄は

「目的の手段化」

ということでまとめとさせていただく。

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