徒然とエッセイ。
植物というのは、大変えらいと思う。
日光を受けて、自分で勝手に成長をする。
生きていく過程で、酸素や栄養を他に提供する。
生きていることが、そのまま他の恩恵につながる。
人間も、そういう意味で、植物のように他に貢献して生きられたら、理想的である。
前提として、まず自分が他からの恩恵を受ける必要がある。
植物だって太陽や大地の力だけでなく、その他諸々の生き物の恩恵を受けている。
それら恩恵を受けて、自分自身を大きく強くしていく。
この過程は必須である。
自分が大きくなればなるほど、他への貢献度が大きくなる。
大きな木が周りのあらゆる生き物に豊かな恩恵をもたらすのと同じである。
自然の中で大地に根を張り、十分に育った木は、お世話をする必要がない。
文字通り、自立して生きていく。
木によっては、何百年、何千年も生きていく。
そして増えすぎると、自然淘汰が起きる。
以前に富士山の案内の方に教えてもらった話だが、最初はアカマツだけが育つ。
溶岩の大地には、土が表面だけで少ないため、根を横に横に張れるような木でないと、育たない。
やがて倒木する。
倒れて腐ると、それらが土となり、他の植物も育つようになる。
そうして、何千年、何万年、何百万年とかけて、多種多様な木が育つようになり、鳥も渡ることで、やがて森となっていく。
うまくできているものである。
地球上の生き物は、自然のサイクルには逆らえない。
自然とは、文字通り自然な状態であり、不自然な状態の真逆である。
ただ、人間の生き方には、不自然が入ってくる。
自然を切り開き、人間にとって生きやすくしたのが、人類の歴史である。
農業の発達も畜産業の発達もそうである。
自然をコントロールすることで、発展してきている。
不自然に慣れると、不自然が自然に思えてくる。
自分のものは自分で取りにいくのが自然、当然である。
しかし、電話一つどころか、クリック一つで、他人が手元まで運んでくれる時代になった。
到着が遅れると、不当な扱いであると感じるようにすらなる。
恐ろしい程の傲慢さが、「自然」「当然」になってしまう。
自然に考えて、他者が自分にしてくれることは、感謝しかないはずである。
社会の仕組みというのは、全て基本的に相互扶助、感謝の関係で成り立つものである。
そうならないのは、そこに上下関係を持ち込むからである。
しかし上下関係は、「不自然」の発達の上ではなくてはならない仕組みである。
農業には指導者が必要であったし、管理する人間も必要である。
サルの社会にすら上下関係はある。
自然界には、食う食われるという弱肉強食の関係もある。
ただし、弱肉強食と上下関係は違う。
弱肉強食は、自然の摂理である。
一方、上下関係は、社会機構である。
社会の維持のために作り出されたメカニズムである。
そう考えると、人間は社会で生きる以上、完全に植物のようには生きられないといえる。
完全自給自足は無理である。
全く上下関係のない中で生きることもできない。
学校、あるいは学級も社会の一つの形である。
上下も含めた多様な関係性の中での、相互扶助の関係である。
単一の種類が揃った人工林より、様々な種類の木のある自然の森の方が強い。
単一種のみだと、気候変動や害虫の大量発生、病原菌等にやられて全滅の危険性がある。
色々な種類が合わさっている方が何かと強い。
相互扶助で成り立つ。
子どもたちを、単一に育てようとすること自体が不自然である。
社会の枠に、自然を無理に当てはめようとする行為である。
多種多様な子どもがそれぞれ雑多に育つ方が強い。
やはり、相互扶助で成り立つ。
自然の中に出ると、色々と気付けることがあると感じる次第である。
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