2021年1月26日火曜日

ジェンダーフリーは関係ないか

 講義で、ジェンダー平等(ジェンダーフリー)について考える機会を頂いた。

SDGsの17の目標の5番として揚げられていることもあり、世界的に見ても重要な目標である。

これが学び多い時間となったのでシェアしたく、書くことにした。


ところで、この問題について「大したことではない」という意識がないだろうか。

「寝た子を起こさない」という意識がないか、ということである。

日本は、世界的に見て、この問題についてもかなりの後進国であるらしい。


学びの結論から言うと、寝た子を起こさない教育では、結果的に全員が苦しむことになる、ということである。

ジェンダーフリーについて真剣に検討することは、全ての人のもつ人権について、再検討することになる。

人権意識の根本に歪みが生じていることに気付くということである。

「自分には関係ない」という世界ではないということである。


さて「男は男らしく、女は女らしく」ということは、日本の伝統的な慣習である。

予想はつくと思うが、どのあたりの世代がこの考えが根強いだろうか。


予想される通り「上の年代ほどその意識が強く、若い年代ほどその意識がない」という結果である。

今まで何十年も、それを常識として刷り込まれてきたのだから、仕方がないようにも思う。

つまり、社会の上層部に年齢の高い人たちがいる以上、トップダウン的に変わることはないということが予想される。


しかし、社会がどうであれ、教室内はそうはいかない。

教室にいるのは、社会で最も若い世代の人達である。

ここに教える側の意識が昭和以前のままでは、ギャップを生じて当然である。


では、我々教える側はどうしたらいいのか。

正しい知識をつけることである。

ある人の言葉の要約だが、「知らない」と「嫌い」の感情的距離は、限りなく近い。

知ることで、嫌悪や拒否の先入観は消える可能性が高い。

まずは、知ることである。


基礎知識として、性を下記のような4つの要素で分けられると考える。


からだの性  女←・・・→男

こころの性  女←・・・→男

表現する性  女←・・・→男

好きになる性 女←・・・→男


それぞれの人が、どこかに属している。


からだの性は、生まれた時のからだの性別である。

こころの性は、自分がどちらの性であると認識しているかである。

表現する性は、服装や言葉遣いなどで、外に出す性である。

好きになる性は、異性か同性か、両性か、または両性なしか、といったことである。


さらに表の「女←・・・→男」の女と男の間は、すべてがスペクトラムである。

つまりは、4つの要素の組み合わせが、無限にある。


「私は一般的」と思い込んでいる人たち同士であっても、違いがある。

例えば、「表現する性」の項目では、

女性よりの、いわゆる「ガーリー」「姫系」「ゆるかわ」なファッションを好む人と、

男性よりの、いわゆる「ボーイッシュ」「ワイルド」「クール」なスタイルを好む人がいる。

これだけでも違う。


それを「あなたのファッションはこのスタイルにすべきだ」と求める他人がいるとする。

これ自体が、人権侵害であり、全くおかしなことだと気付くはずである。


ここに、学校の制服問題が絡んでくる。


こころの性と表現の性が男性の、からだが女性の生徒がいる。

きまりとしては女子の制服であるスカートを着用することになるが、これは本人にとって大変な苦痛である。

「男子のズボンをはかせてあげて欲しい」と思う人も結構いるのではないだろうか。


こころの性と表現の性が女性の、からだが男性の生徒ならどうだろうか。

こちらは、より周囲の許容ハードルが高いことが予想される。

「男子」がスカートを履くということに、周りの方が抵抗感を覚えるはずである。


自分が明日から逆の性別の恰好をして出勤しろと強制されることを想像すればわかる。

女性がパンツスタイルのスーツで出勤してきても、周囲は特に何の違和感もない。

一方、男性がスカートを履いてくる「常識」は今の日本にはない。

これは厳しい。


ただ、だから前者の「からだが女性の生徒」の方が楽か、というと決してそんなことはない。

「女子生徒」のはずなのにズボンをはいているということで、周りの女子から仲間外れにされる可能性が大いにある。

普段からの同調行動、同調性が強い集団ほど、異質・異端への排除行為は強烈である。

結局、周囲次第である。


「周囲の友人にどう見られるか」は特に思春期の子どもにとっては文字通り死活問題である。

人間関係における「相談できる人」のトップが親から友人に移行している時期でもある。

ここへ理解してもらえないのは厳しい。


したがって、このジェンダーフリーの制服問題においては、大きな壁が二つある。

学校(教師集団)が許可してくれるか。

周囲の友人が理解を示してくれるか。

大まかに言うと、この二つである。


さて、この問題は、実はジェンダーフリーに関することだけではない。

髪色・ピアス問題とも関わってくる。


国際色豊かな学校であれば、生まれてきた個性(人種)として見るだけで、間違いなく髪の色がばらばらである。

それを「〇色はよくて△色はだめ」というように線引きができるか、ということである。

また、通常がピアス着用など、文化的に異質な背景をもつ生徒の個性に対して線引きができるか、ということである。

つまり、個の人権に配慮するか、全体としての規律を優先するか、という問題である。


すべてが、後手後手なのである。

髪色・ピアス問題の一つをとっても、全国の学校として根本的な解決に至っていない。

この問題に限らず、すべてが戦後に整えられた体制の時代から「鎖国」されているというのが現状である。


「今まで大丈夫だったんだから、これからも問題ない」という考えでは、全員が沈んでしまう。

かつて海の風を目いっぱいその帆に受け、順風満帆に進んでいた大型船は、老朽化が進み、このままではもう沈む運命なのである。

他国はいち早く全く違う形の新しい船に乗り換えている。

学校も日本の社会の常識も、世界基準の新しいものに「アップデート」する必要がある。


まとめる。

ジェンダーフリーについて考えることは、人権全般について考えることである。

それは、学校教育というものの在り方そのもの、根本的な問題について考えることにつながるからである。


かつての自分の考え、行動と全く違っていいのである。

矛盾していてもいいのである。

かつての自分が間違っていたのかもしれないし、その時代では間違っていなかったのかもしれない。

しかし、今の自分と昔の自分が同じでいいはずがない。

人間は、発展する生き物であり、アップデートする存在なのである。


ジェンダーフリーなんて興味がない、と言わずに、知ることに価値があるということをお伝えしたく、書いた。

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