「ブレーキを踏みながらアクセルを踏むようなもの」という表現がある。
色々な場所で聞くので、出典がわからないが、およその意味は
「真逆の方向に同時に力を入れる無駄な行為」である。
一生懸命、同時に真逆の方向に力を入れれば、結局あまり進まない上に、本体も傷む。
エネルギーの無駄遣いである。
この言葉は、教育でもそうだし、生活全般の色々なことに当てはまる。
だめだと分かっている生活習慣などは、大抵当てはまる。
教育に限らず各施策などにも散見される。
具体例で考える。
例えば、子どもに「勉強しなさい」と無理矢理やらせる行為である。
勉強をやらせたい本来の理由は、子どもに良くなってもらいたいからである。
しかし、無理矢理勉強をさせられても、当然捗らない。
無理に押そうという周りのアクセルの力に対し、本人の抵抗というブレーキがかかる。
結果、大してできるようにならない上に「勉強嫌い」という車体の傷みを起こす。
抵抗というブレーキの摩耗のみならず、本人は使わないのでアクセル機能自体が弱くなっていくという可能性も出てくる。
廃用性萎縮の原理により、使わない機能は減退していくからである。
最近の教育用語でよくきかれる「個別最適化された学び」を推進すると、現存の学校はブレーキになる。
学習指導要領の内容を学校できちんと履修させよという命題と、個別最適化された学びは、アクセルとブレーキの関係である。
本当に個別最適化された学びを推進していくと、学習指導要領の内容とはかけ離れていき、学校に来る必要もなくなる。
ただ、「個別最適化された学び」という用語は、GIGAスクール構想の一環から生まれている。
要は、一人一台端末の配備スタートということとの関連である。
本来の「個別」とか「最適化」という意味と、この造語の指す内容は異なるともいえる。
しかしこれからの時代、教育が「個別」で「最適化」されていくのであれば、学校という存在自体を変える必要が出る。
大学のような個人の研究の場になっていくのかもしれない。
どうなるにせよ、学習指導要領の内容をきっちり教えるというような旧来の在り方とは相性が悪い用語であることは間違いない。
同じものを全員に万遍なく教える、という教育自体が変わっていかないと、いつまでもブレーキとアクセルの関係である。
自分に向いている気がするこればかりを学びたい「個の学び」と、万遍なく教えたい「公教育」がぶつかることになる。
今ストップとなった旅行推進事業もそうかもしれない。
補助金を出すというアクセルを踏みつつ、外出自粛というブレーキをかけている状態だった。
結局、歪みが出た。
結果的に、アクセルの方から足を離さざるを得ない事態になった訳である。
(しかしながら、これで助かった側の人もたくさんいた訳で、あくまで結果論である。)
人間関係にも、アクセル&ブレーキがあるかもしれない。
やりたいことがあるからやってしまう人と、それを危険だから止めさせようと働きかける人の関係である。
親子関係にありがちである。
仕事では、もしかしたら、両方ブレーキというパターンも多いのかもしれない。
リーダーから信頼されていないと感じており、本当はやりたいことがあるのに言い出せず動けないメンバー。
自分でブレーキをかけている。
その一方、メンバーを信じる・労うことを一切しないで、安全で事無きを求めるばかりのリーダー。
部下にブレーキをかけている。
互いにストレスをため合い、ブレーキをかけあっているといえる。
これでは、当然動けない。
この場合のアクセルは「信頼」の一言につきる。
アクセルを踏んで進もうとする時、どこかでブレーキをかけていないか。
そのブレーキを外すだけで、スムーズに物事が動くこともあるかもしれない。
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