元日に書いた記事。
2020年は、未曾有の大きな変化の年だった。
恐らく、戦後で最も大きな変化が訪れた年である。
東日本大震災以来の強烈なインパクトである。
価値観も生活も仕事の仕方も、大転換を迫られた。
世の中の変化自体は止められない。
変化に対応することが大切である。
生物にとって、環境の変化に適応できないことは、絶滅に直結する。
小中学校も、変化を迫られている。
ただここまで追い込まれた結果、これまで必要と言われ続けてきた様々な改革がやっと進みそうである。
デジタル教科書の導入は眼前。
英語学習も本格化。
少人数学級実現も現実味を帯びてきた。
大学も改革が進んだ。
大学入試も抜本的改革の最中。
大学は、オンラインでの学びが主流となってきている。(というより対面がほとんどできない。)
大学は、通わなくてもある程度までが成立することが証明された。
これからは、都心の大学にわざわざ通わなくても、地方に住みながら単位が取得できる時代が来る。
つまり、住む場所が自由になり、学校の選択肢も自由度が格段に広がる。
国内の選択の自由どころか、世界にまで選択肢が広がっている。
もう、何もかもが、旧世界とは変わる。
2021年が、2020年以上の変化の年になることも間違いない。
一次関数的な直線の変化ではなく、二次曲線的な急激な変化をしていくはずである。
感染症対策に苦しめられるだけでなく、確実にその変化に対応していく人達がいるはずである。
逆に、自分が「変化できない」のはなぜなのか、どういう時なのかと考えた。
変えた方が確実にいいのに、変えようとしない。
頑な、否定的、頑固になってしまうその理由である。
これは、過去の自分の行動の否定になるからであると考えた。
私のように、著作物が証拠として残っている人間は、更に始末が悪い。
「あなたはこう書いているではないか」と言われてしまうと、それと逆の行動は尚更とりにくい。
ただ、昨年だけでも、価値観の大きな転換が山ほどあった。
過去の自分の考えを否定する自分をたくさん発見した。
それは、過去の自分が間違っていたというより、今の時代に合わなくなったのである。
あんなに大事にして便利だと思って使っていた世紀の大発明「フロッピーディスク」を今は全く使わなくなったのと同じである。
身近な価値観のコペルニクス的転換例を挙げる。
例えば、マスクの着用。
かつてのマナーが今はマナー違反になることもあるが、マスクの着用がまさにそれである。
かつて海外ではマスク着用=重病人または顔を見せられない怪しい人という認識であった。
外ではマスクを付けないのがマナーだった。
今では逆に、マスクを付けていないことが逆にマナー違反とみなされる時代である。
世界のマナーが180度変わったといえる。
どちらが間違っているのか。
どちらも間違っていない。
時代が変わったから、マナーも変わったのである。
マナーも常識も、生き物であり、変化する。
教育の常識も変化する。
自分自身の考えや在り方も、時代の変化に合わせる必要がある。
首尾一貫、変わらない姿勢。
これはこれで、かっこいい。
仙人のような浮世離れした暮らしができるなら、これも魅力的である。
しかし、社会に生きる以上、変化に対応しない訳にはいかない。
変わらずに持ち続けたい部分がある。
志に関する面である。
私の学校教育に対する首尾一貫の姿勢は「子供が成長する場」という一点である。
子供が学校に朝来た時よりも、少しでも成長して帰る。
ここは変わらない。
ただし、やり方や考え方は、柔軟に変える。
「上手に教える」ことには、価値がある。
これは教師中心の視点である。
しかし今は「うまく学べる」ように育てるという方も求められる。
子供中心の視点である。
「一斉」の得意分野は、均一な質の「製品」の提供である。
これはこれで価値がある。
一方で、「個別」の得意分野は、多様な「作品」の創出である。
これはこれで価値がある。
今の時代の教育には、両方が求められる。
「一斉」である程度の質を担保しつつ、
「個別」で多様性に対応する。
そこまでやって、そこから先に求められるものは、やはりオーダーメイドの教育である。
ICT活用の組み合わせと大変相性がいい分野でもある。
変化に対応すること。
いち早く対応している先駆者に学び、自分もチャレンジすること。
次代を育てる立場にある以上、覚悟を決めていきたい。
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