2021年1月18日月曜日

教えるということ

学校教育では、教える内容の最低ラインが予め定まっている。

約10年スパンで改訂される、学習指導要領の存在である。

現行の小学校学習指導要領解説を全教科分並べれは、百科事典のような厚みと分量になる。

それぐらい細部にまで渡って教えるべき内容が書かれている。


定まっているからこそ、そこについて悩まなくていいという面がある。

一方、定まっているからこそ、それをせねばならないという義務が生じ、自由に制限がかかる面がある。


そこから、現在の学校の教師の仕事には、次のことがいえる。


1 定められたことを全て教えようと努めること

2 教えた内容が身に付くように努めること


厳密には、1は努める、ではいけないのだが、現実的には「努める」であろう。

2は、努めるで正しい。

現在の日本の義務教育は、修得主義ではなく、履修主義だからである。

修得させないといけなくなると、身に付けさせられなかった子どもは留年させることになる。


さて、これらを前提に、学校で教えるということを考える。


ある教科の内容を教える。

やらせてみる。


この段階で既に大きな壁が2つ出る。


教えた時。

伝わらない、あるいは聞こうとしない子どもがいる。

当然である。


やらせてみた時。

やれない、やりたがらない子どもがいる。

当然である。


教えられる子どもの側に立つと、実行能力と意欲の2軸で4つの領域に分けられる。


1 実行能力もやる意欲もある

2 実行能力は不足しているが、やる意欲はある

3 実行能力はあるが、やる意欲は不足している

4 実行能力もやる意欲もない


1は何も問題がないので、教えてやらせてみればよい。

教える側がどんな人でも問題ない。

高い課題を示すだけで勝手に自分でどんどん伸びる。


2は、本人がやれるようになりたい状態である。

教える側は、あれこれ工夫して、手をかけ頭をひねって一生懸命に教えればよい。

熱心に教えて感謝されることはあっても嫌がられることはない。


3から先が難しい。


3は、子どもが目的意識をもてるような工夫が必要になる。

しかしながら、本人が求めてないので、下手に与えることは迷惑になる。

ただ、内容が定まっている学校という枠組み内で、放置してやらせない訳にもいかない。

なまじっかできるがゆえに、教えるということ自体が難しい状態である。


4は最も難しい。

教える側からすると、手も足も出ない状態である。

あれこれ工夫して意欲を出すようであればいいが、多くの場合有難迷惑である。

しかも、意欲をもっても、簡単にはできるようにならないのである。

そうなると、意欲の維持自体も難しい。


まとめると、教えるという行為には、限界がある。

教えるという行為は、与えるという行為の一種である。

内から引き出すという意味があるものの、それ自体も教える側からの働きかけである。

求めていない相手には、有難迷惑である。


そう考えると、教える側ができることは何か。

なるべくその教えたい内容の魅力が伝わるようにしつつ、提示するまでである。

それを受け取るかどうかは、学びの主体である子ども自身が決めることである。


受け取った子どもに対しては、更に教えることが数珠つなぎ的に出る。

受け取らない子どもに対しては、また別の機会に違うものを提示をするしかない。


ここを無理に押し付けて魅力を伝えようとすると、嫌がられる。

それは、訪問セールスと同じである。


相手がその商品を気に入ったならば、相手から呼ばれて買われるようにまでなる。

あるいは相手がセールスマン自身を気に入ったならば、他のあらゆるものもその人から買うようになる。

そしてこれは、お互いに幸せな状態である。


相手が興味をもたないならば、迷惑で鬱陶しい存在でしかない。

しつこく訪問して売ろうとすることで、顔を見るのも嫌という可能性が大いにある。

そしてこれは、お互いに辛い状態である。



まとめる。

教えるということ、その本質は「提示」である。

そこから先は、相手次第である。


提示するものの魅力を工夫して十分に伝えること。

一方で、興味をもたない相手に押し付けないこと。


この辺りが教える際の要点ではないかと思われる。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング