「ぶらずに、らしゅうせよ」という古人の言葉がある。
私自身は、師の野口芳宏先生から教わった言葉である。
紹介していただいた次の本にも載っていた。
「ぶらずに、らしゅうせよ」
深淵な言葉である。
こういう古人の教えは、最終的に人々の解釈次第である。
言葉は生きており、解釈が付け加えられ続けていく内に、真逆の意味を備えることもある。
「犬も歩けば棒に当たる」などもそうである。
「だから動くな」か「だから動け」かは、解釈次第である。
ぶるのではない、らしさについて考える。
例えば「サンタクロースらしさ」とは何か。
(これをメルマガ上で書いた時がクリスマスだったので。)
以前にも書いたことがあるが、赤い服やトナカイ、ソリ、煙突等々ではない。
それらは後々で人々に付け加えられながら作られた「イメージ」であって、らしさとは違う。
然るに、「ぶる」とは人々のもつイメージのように外見を振る舞うことかもしれない。
サンタクロースらしさとは「子どもに幸せをプレゼントする存在」である。
そこにサンタクロースらしさの本質がある。
それは親に似ているようだが、親の本質とは違う。
親の本質は「子どもへの幸せプレゼンター」ではないからである。
では、親らしさとは何か。
これは難しい。
言ってしまえば、子どもをもちさえすれば、「親」の要件を満たすことにはなる。
人間に限らず、あらゆる生き物が「親」になれる。
生き物の中には、保護と養育に全く関わらず、生みっぱなしの親という種もいる。
一回に生まれる子どもの数が桁違いに多く、かつ生まれた直後からある程度の生存能力がある種だけである。
数が多いのは「他の生き物に食べられること前提」である。
海の生き物に多いが、当然、人間はこれに全く当てはまらない。
人間は、生まれた直後の赤ん坊の強さランキングでいうと、恐らく全生物中最弱の部類である。
そう考えると、生みっぱなしでない生き物の「親らしさ」とそうでない生き物とは、全く別物と考えられる。
これらの生き物の親として「らしさ」を考える。
これは、子どもが自立するまで命がけで守って養育することであろう。
「種の保存」がそれら生物の親という存在に課せられた共通本能である。
だから「子どものため」という行為は、本来親らしいといえる。
それは子どもの自立という目的に向けて必要な保護活動である。
(問題は、どこまでそれを続けるのかである。)
ただ、親に限らず教師も含めて、子どもを養育したり教えたりする立場にある者が「子どもため」を口癖にしている場合には注意が必要である。
「〇〇ぶっている」可能性がある。
教師が「子どものため」に存在するのは間違っていない。
しかしその「子どものため」の内実が、実は「自分の都合」の押し付けになっていないかは自問する必要がある。
(例えば「宿題は子どものため」というのは、実は大人の都合ではないかというのが私の長らくの主張である。)
それが、自分の都合や世間体、外見を気にしていてのことか、本質的にそうであるからしていることなのか。
そこが「ぶらずに、らしゅうせよ」の境目である。
「ぶる」と「らしい」を比較して考えることで、物事の本質を考えることにつながる。
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