2021年1月22日金曜日

「らしさ」とは何か

 「ぶらずに、らしゅうせよ」という古人の言葉がある。


私自身は、師の野口芳宏先生から教わった言葉である。

紹介していただいた次の本にも載っていた。


『般若心経講義』 高神覚昇著 角川ソフィア文庫


「ぶらずに、らしゅうせよ」

深淵な言葉である。

こういう古人の教えは、最終的に人々の解釈次第である。

言葉は生きており、解釈が付け加えられ続けていく内に、真逆の意味を備えることもある。


「犬も歩けば棒に当たる」などもそうである。

「だから動くな」か「だから動け」かは、解釈次第である。


ぶるのではない、らしさについて考える。


例えば「サンタクロースらしさ」とは何か。

(これをメルマガ上で書いた時がクリスマスだったので。)


以前にも書いたことがあるが、赤い服やトナカイ、ソリ、煙突等々ではない。

それらは後々で人々に付け加えられながら作られた「イメージ」であって、らしさとは違う。

然るに、「ぶる」とは人々のもつイメージのように外見を振る舞うことかもしれない。


サンタクロースらしさとは「子どもに幸せをプレゼントする存在」である。

そこにサンタクロースらしさの本質がある。

それは親に似ているようだが、親の本質とは違う。

親の本質は「子どもへの幸せプレゼンター」ではないからである。


では、親らしさとは何か。

これは難しい。

言ってしまえば、子どもをもちさえすれば、「親」の要件を満たすことにはなる。

人間に限らず、あらゆる生き物が「親」になれる。


生き物の中には、保護と養育に全く関わらず、生みっぱなしの親という種もいる。

一回に生まれる子どもの数が桁違いに多く、かつ生まれた直後からある程度の生存能力がある種だけである。

数が多いのは「他の生き物に食べられること前提」である。

海の生き物に多いが、当然、人間はこれに全く当てはまらない。

人間は、生まれた直後の赤ん坊の強さランキングでいうと、恐らく全生物中最弱の部類である。


そう考えると、生みっぱなしでない生き物の「親らしさ」とそうでない生き物とは、全く別物と考えられる。


これらの生き物の親として「らしさ」を考える。

これは、子どもが自立するまで命がけで守って養育することであろう。

「種の保存」がそれら生物の親という存在に課せられた共通本能である。


だから「子どものため」という行為は、本来親らしいといえる。

それは子どもの自立という目的に向けて必要な保護活動である。

(問題は、どこまでそれを続けるのかである。)


ただ、親に限らず教師も含めて、子どもを養育したり教えたりする立場にある者が「子どもため」を口癖にしている場合には注意が必要である。

「〇〇ぶっている」可能性がある。


教師が「子どものため」に存在するのは間違っていない。

しかしその「子どものため」の内実が、実は「自分の都合」の押し付けになっていないかは自問する必要がある。

(例えば「宿題は子どものため」というのは、実は大人の都合ではないかというのが私の長らくの主張である。)


それが、自分の都合や世間体、外見を気にしていてのことか、本質的にそうであるからしていることなのか。

そこが「ぶらずに、らしゅうせよ」の境目である。


「ぶる」と「らしい」を比較して考えることで、物事の本質を考えることにつながる。

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