8月は、戦争に関する記事をいくつか書いた。
そこでメルマガ読者の方に勧められて、次の本を読んだ。
元々は1983年の刊行の単行本なのだが、つい最近、文庫の新装版が出た次第である。
著者はご存知、元都知事でもある猪瀬直樹氏である。
極東裁判でも取り上げられた「総力戦研究所」という組織の全貌について書かれている。
そして研究所によって「日本必敗」を正確に予測していながら、なぜそれを止められなかったのか。
戦争の裏側について学ぶことができるのだが、それ以上に、今に通じる問題がここにあるという点においても、一読の価値ありの本である。
(今の日本では諸外国に対し「日本必敗」だろうと予測している人は、決して少なくないはずである。
しかし、それを自ら止めようとしていないのも現状ではないだろうか。)
最高の頭脳と判断力と道義心を備えた人間が集まっても、誤った判断になってしまうのはなぜなのか。
素晴らしい組織が、どのようにして「死んで」いくのか。
その仕組みがわかる本である。
誤った戦争に突っ込んでいってしまった経緯も、読むとよくわかる。
ちなみに「歴史」という単語を聞いただけで「苦手」「無理」「わからない」と毛嫌いする人もいる。
人によっては「数学」や「物理」「化学」なども同じ扱いかもしれない。
これらは「宗教」「政治」などにも通じていえる。
なぜ嫌いかというと、実は「わからない」からである。
わからないことは、怖いから嫌いと感じるだけなのである。
幽霊の正体見たり枯れ尾花
という有名な句があるが、わかれば怖くなくなり、嫌いでもなくなる。
「話してみたら意外といい人だった」というのも、全く同じ原理である。
「とにかく戦争反対。ダメなものはダメ」というだけで、自分には特に知識や考えがないと思うなら、読んでみることをおすすめする。
誰もがダメとわかっている戦争に、突っ込んでいく「空気」がわかる本である。
戦争になったのは誰か特定の人が悪かったからだという思い込みや刷り込みがある場合にも、ぜひ読んで欲しい本である。
要は、データや真実よりも、すべては「空気」次第ということなのである。
いや、データや真実すらも、納得という「空気」をつくるために利用、あるいは捏造される。
納得の「空気」にとって都合のいい「事実」に作り変えられる。
日本は、ずっと変わらず「空気」で物事を決定する社会なのである。
上層部の「空気」によって決定した事項は、覆せない。
決定した上層部も、だめとわかっていながら、そうせざるを得ない「空気」に屈服しているのである。
真珠湾攻撃を命令した司令官もパイロットも、原爆投下を命令した司令官も実際に爆弾を落としたパイロットも、みんな同じである。
それを計画した人も、飛行機を作った人も、部品を作った人も、そのための世話をした人も、全て同じである。
官吏(役人)の仕組みと同じで、個々に責任はなく、決定事項に対してそれぞれの役割分担をしているだけなのである。
何が本当に正義で何が本当の悪かなんて、関係なく動くしかないのである。
そこにお馴染みの勧善懲悪のストーリーが都合よく利用されているだけである。
戦争のことだけではない。
翻って、自分自身の生活についても考えてみる。
各々、今の自分の置かれている立場を考えてみる。
不満や大きな問題点はないか。
実は悪いと思っているのに、従って日々を漫然と過ごしている点はないか。
あるのに、自ら改善しようとしないのはなぜか。
それは、空気が関係しているからなのではないか。
「今更無理」
「上が」
「自分にはどうにもできない」
・・・
これらを支配しているのが、空気である。
空気は、つかみどころがなく、たたかいようがない。
人々に、無力感を植え付けるものである。
空気を、どう変えるかが問題となる。
縦割りの多重構造の組織ほど、空気を変えるのは難しい。
組織で長い間かけて醸成された空気を変えるというのは、容易ではない。
「難しい」→「仕方ない」→「諦める」→「慣れる」→「常識」となる。
組織に新しい風が必要になる所以である。
しかしその「風」もやがて変えられずに馴染んでしまい、他に常識を押し付ける側になる。
これを変えられるのは、「大衆」としてではない、責任をとれる個人である。
そうなると、その人は「常識」と「みんな」の安全地帯から出る必要がある。
そうなってくると、実行するのはごく少数の限られた人だけである。
大衆的心理として、自分がリスクを負うのが嫌だからである。
結論、空気を変えらるか否かは、責任をとれるかどうかにかかっている。
責任をとろうとしない人には、決して空気は変えられない。
だから、どんな規模にせよその組織のトップがどんな人物であるかは、決定的に重要である。
空気重視の文化。
これ自体を変えるということは、難しいといよりも、無理である。
それより、より良い空気を自ら作り出そうとする人を多く育てる方が現実的である。
それには、教育から変えるしかない。
そして国民の全員が必ず受けるのは、学校の義務教育だけである。
今の知識偏重の大学受験をゴールとした競争を煽る学校教育の仕組みからは、そのような教育は生まれない。
現場がどんなに努力しても、そもそものシステム不全を起こしているからである。
幼稚園でどんなに自由闊達な子どもを育成しても、学校に入った瞬間に机と椅子にきちんと座りましょう、という時点で、終わっている。
小学校の側も、特定の大量の内容を期限内に教えなくてはならないカリキュラムになっているから、根本的には変えられない。
中学、高校になれば点数重視になるのは尚更であるが、自他共に諦めがつく分、やりやすい面もあるかもしれない。
この小学校に入った途端に静かにきちんと座る、というのを実現するのも、実は空気である。
諸外国が必ずしもそうならないことを考えれば、理由は明白である。
(ただし、ここを勘違いして、学級の子どもがめちゃくちゃに暴れているのに対して無責任な担任では話にならない。
そもそも座らないで済む仕組みづくりとか、話を聞きたくなるようなことをするとか、そういう工夫をするのが担任の仕事である。)
こんな些末な話に始まり、子どもたちは空気を「読む」ことばかりに気を遣って、「作る」方に尽力しないのである。
なぜなら、周囲の大人たちのそうした姿を普段から見てきているからである。
大人の立ち振る舞いをコピーされているのである。
我々大人が、より良い空気を自ら作る姿を、真正面からはもちろん、背中でも見せていかなくてはならない。
空気に従って誤った行動に無思考で全員が突っ込んでしまうような事態は、避けねばならない。
今の混乱期こそ、その在り様が問われているように思える。
ここを根本から変えていくにはどうするか、学校教育の一端にいるものとして、今後も考えていきたい。
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