以前にも紹介した、次の本に関連して、終戦記念日あたりで書いた記事。
この書名をみると、昭和16年夏に敗戦。
さらっと流すと、1945年の8月15日を思い浮かべるかもしれない。
しかし昭和16年というのは、西暦1941年のことである。
1941年の夏に「日本必敗」が正確に予想されたということである。
(ただし、原爆の存在は想定外だったようである。)
戦争を始めるまでもなく、この時点で、日本の敗北が決定していたという意味である。
そして実際にこの年、1941年12月8日、真珠湾攻撃が実行された。
その後の惨憺たる結果は、周知の通りである。
つまり、物事の結果というのは、正確な予想ができた時点で決まっている。
身に覚えがあると思うが、たとえデータに基づかなくても、悪い直感というのは、大抵ほぼ思った通りになる。
つまり「このままだと事態は良くならなそうだ」「悪いことになりそうだ」と感じることは、実際そうなるということである。
別にスピリチュアルな話ではない。
大抵の「想定外」は実は想定外ではなく、想定したがらなかった、わかっているのに目をそらしていただけということである。
なぜこうなるのか。
これを阻むものこそが、空気である。
この時の判断は、周りがどう考えているかに左右される。
そしてその周りも、周りをあてにしているので、決断ができない。
会議や話合いをしても右往左往するのは、これが根本的な原因である。
つまりは、責任者が不在なのである。
何度も書いているが、多くの会議の基本機能は承認である。
原案とは決定事項の異名である。
よって、かなりの部分が要らない。
決まらない会議は、原案が穴だらけで、提案者がだらしないからに他ならない。
(実際、私の提案のせいで長引いた会議も多くあるので、自責の念を込めてである。)
一方でだめな決定になってしまう会議は、責任者の側に確固たる信念と、伝えるための適切な手段が用意されていないためである。
それに伴って、出席者側も理解をしていない、だから意見を表明しないという状態になる。
よくわかっていない周囲の空気に翻弄され、本質的な部分が伝わっていないため、だめな結果がわかっているような決定になる。
だめだとわかっている決定事項を実行して、結局残念な結果になる。
学級経営の場合も学習指導でも、家庭教育でも、本質的には同じである。
何となくこれじゃだめだと思っていることをやっても、だめになるに決まっている。
あるいは、だめな結果が出ているのを、力技で押さえつけて蓋をして見えなくしているだけである。(そして、いつか爆発する。)
だめになることが、予想できているか。
できているなら、策を打って方向を変えない限り、遅かれ早かれ予想される結果が訪れる。
歴史の過ちから学べることは多い。
「歴史は繰り返す」という言葉があるが、改善しないで同じ過ちを繰り返してしまうのは、進歩のないだめな失敗である。
失敗を恐れずに挑戦し続けるために、この機会に改めて歴史を学んでおきたい。
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