実際に、校内研修に際して、校内に私が流したメール(校内SNS)の文章を、人名や文末等を一部改変してシェアする。
今日的な問題への提起となると考えたためである。
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1.「見取る」はわからない
授業研で「見取る」という用語がよく使われる。
広辞苑だと「見て知る」「みとめる」、明鏡だと「見てはっきりと知る」とある。
授業中、見ることはしている。
見て瞬時に判断している。
しかしそれが「見取る」なのかというと、「見てはっきりと知る」まではとてもいかない。
よって通常、授業中に「子どもを見取る」ができているということはありえない。
しかし学校で使われる「見取る」は、教育業界の造語、新語である。
教育で使われるときは、本来の意味とは違うようである。
こういう定義が曖昧な言葉は、注意して使わないと危険である。
よくわからないまま、学識の高いと思われる人や権力の強い人の意見に従って妄信してしまうからである。
よって「わからない」「できていない」と堂々と発言していた人の意見が、誠実で正しいのだといえる。
そうなると、定義しようという取り組みになるのだろうが、それが研修目的になっては目的と手段の主客転倒である。
授業で何を「見る」べきかなら、議論できる。
しかし「みとる」という未定義の新しい造語を用いた上に「何を」が入ると、混乱する。
授業研の際には、その辺りを意識しないと、授業後の議論が噛み合わないのである。
2.主体的・対話的で深いまなびは難しい
研修に参加している我々が主体的・対話的で深い学びができない以上、子どもに求めることは不可能である。
例えば夏の校内研修でも、研究主任にぶら下がって「何をやるのか」というような姿勢では、到底実現できない。
研修が「面白い」「つまらない」と評価するような受動的な態度ではなく、主体的に参加できる職員集団であるべき。
子どもへは「つまらないなら、もっと詰めて」と伝えている。
せっかくの貴重な時間を費やすのであれば、全員で中身を充実させていきたい。
3.自分を表現できる空間へ
少人数での話合いは、自分の思いを堂々とさらけ出し、白熱できる。
一方で、全体で行う話合いの場の空気はかたくなりがちである。(職員会議も同様。)
「答え合わせ」をしていて、間違えてはいけない、下手に手を挙げられないという空気。
あまりうまくいっていない教室でよくある雰囲気である。
指された人が「うわー」となり、周りの人がほっとするようであれば、うまくいってないと考えて間違いない。
差は何なのか。
安心感につきる。
何を言っても安全・安心。
人格を否定されたりしないし、意見の違いを面白がれる。
殺伐と「斬り合う」のではなく、建設的に意見の違いを伝え合い、面白がれる集団。
目指す子ども集団と同じである。
研修も、回数を重ねるごとに良いものになっていく。
クラス会議での話合いと同じである。
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以上である。
オンラインでチームズを使うようになってから、こういうことを校内でシェアし合う文化ができてきている。
新しいものも、チームづくりに有効に活用していきたい。
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